−提 言−

・新聞メディアの本来の機能 (2001/4/8)

日本のマスメディア、特に新聞は今大きな問題を抱えている。

新聞倫理綱領を待つまでもなく、新聞は、国民の「知る権利」を担う重要な使命を負っているとともに、責任ある論評をもって、公共的、文化的使命を果たす義務が在る。
だが、日本の新聞、その中でも特に朝日新聞は、およそ「責任ある論評をもって、」その義務を果たしているとは到底思えない。

一例を挙げれば、96年から98年夏の橋本政権の緊縮財政路線を支持し、消費税増税、社会保障負担の増加、時機大局を観ない政府支出の急激な削減に賛成し、民主党等の野党とともにキャンペーンを張る形で、世論を誘導しかつ、世論に迎合して、いわゆる橋龍不況により大幅な景気後退、金融危機を招き、日本発の大恐慌の淵まで行った事は、日本の経済史、政治史に特筆大書して深く記憶されるべきである。
財政再建が必要なのは言うまでもないが、手順、全体を考えない「緊縮財政=善」「積極財政=悪」という単純な思考は中学生の正義感同様大変に危険なものであった。

また、細川政権末期に小沢一郎氏が図った福祉目的税の導入に対しこれでもかとばかり、批判を加えた。小沢氏の強引な手法には批判されるべき面が在る。だが、同時にそれとは切り離して福祉目的税という政策そのものを純粋客観的に批評する視点を国民に提示する事も不可欠であった。

さらに、最近は介護保険の支給対象に家族介護も入れ、サービスの体制が整わない以上保険料徴収は免除すべきだという亀井静香氏の主張に対し、女性を介護に縛り付けるものとして、地域差等も考慮せず一方的な批判だけを加えた。
ドイツでは家族介護も支給対象であり、北欧では税法式が主流であるが、亀井氏の主張が出る前には、結構、介護先進諸外国の事情も紹介していたのが、一時期を境に全く触れることがなくなってしまった。
これにより、国民は介護の全体像について考える材料を与えられず、また、サービス体制の不備という切実なはずの問題点が隠されてしまった。

この「世論を誘導し、かつ世論に迎合し」、日本に損失を与えた事は、なにも戦後だけの事ではない。
70年前に国連脱退、日独伊三国同盟を支持し、軍部とともに旗を振って日本を勝てない大東亜戦争に導き、原爆投下、敗戦により未曾有の破滅に導いた事は、現在とその主義の傾向は左右は逆ながらぴたりと相似を成す。
当時は、1928年にパリで調印されたケロッグ・ブリアン条約以降、その是非はともかく、列強は侵略戦争を禁止し既得した植民地支配を固定化する方向に進みつつあった。
31年の満州事変までは植民地獲得に滑り込みセーフとの評価も有り得るが、その後は完全に世界情勢、歴史の潮目が変っていた。
政治、軍部、世論ともに、時代の変化を読み国際世論の趨勢に沿いつつ国益を実現させる大局観が欠落していた。
朝日新聞はじめジャーナリズムもまたしかりである。

世論に迎合し口当たりの良い論説を行い、キャンペーン的に世論を形成し、信念なく国民世論を導く。
それを持って部数の増進を目論み、同時に社会の指導層として優越感を味わい、社内世論に阿り出世を図る。
特に60年安保闘争後、一つのシステムとして完成した感が在る。

このシステムが成り立つ事の基層には日本人の付和雷同性が在ろう、また、テレビ等も同様であるが、日刊である即時性、速報性のため、どうしても安易に大衆受けする論説に陥りやすく、皮相な見方になってしまう。

いや、これは国内外を問わずジャーナリズム一般に言える事であろう。
アメリカのピューリッツァ賞作家、デービット・ハルバースタム氏がキッシンジャー氏の一連のベトナム外交を批判した文章が記憶に残る。詳細は省略するが私にはどうしても実務者のキッシンジャー氏に対し、ハルバースタム氏の言う事は、言い放しの様に聞こえた。

このような刹那性はジャーナリズムが持つ特性かもしれない。
物事に対して即時に報道するとともに、たとえ皮相一面的な見方になっても、即応して批評をあたえる事。それによって、読者に事態を把握するよすがを与える事が一つの機能であり特徴であろう。
であるなら、なおさら深く自戒すべきである。
この速報性を持って、新聞は義務を果たしたと思ってはならない。
これは、ジャーナリズムの持つ機能の一面であり、仮のものなのである。

およそ国家、社会に対し、責任ある論評を加えると言う事は、そもそもどういう事であろうか。
それは、もし自分が国家の操縦席に座ったと仮定したら、一体どんな経世済民を行うのかを己自身に問い、千万人といえども我行かんの気概を持って社会に警鐘を鳴らし続ける事に他ならない。

では、新聞が本来の機能を果たすためには制度、仕組みとしてはどうすべきであろうか。
2大政党制でない日本の場合は一貫した支持政党の表明は難しいが、新聞社としてその政策的立場をより明確にすべきである。また、署名記事にする事により社の基本的立場とは離れた記者個人の視点主張を織り込む事も可能になろう。
立場を明確にしないから、継続性、一貫性のある責任在る発言が出来ないのだ。

明治の論壇を主導した陸羯南は、在野の視点から大隈外交等時の政府に批判を加え、その主宰する「日本」は発禁処分の最も多い新聞であった。
だが、常に天下国家のために発言し、日本の世論に方向性を与えた。

何故に新聞が社会の中で存在する事を許されているのか、今一度根本に立ち返る必要が在ろう。

                                                     以上

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