−提 言−

 ・「公共」の創造 −荒廃する日本社会の処方箋− (2001/2/4) :執筆中

バブル崩壊後、特に90年代後半から、政治経済の混乱にその軌を一にし、高級官僚による汚職、犯罪、企業経営陣による経済事件、少年による凶悪犯罪等が目立って報道されるようになった。

専ら政治家の専門分野であった汚職等については、高級官僚に対する業者の接待等は従来エリートの特権としてある程度、社会に大目に見られていた部分があった事を割り引いて考えなければならないだろう。企業経営陣の総会屋に対する利益供与も、商法改正に日本の企業慣行が追いついていない等の面を考慮しなければ正確な観測といえないだろう。
また、少年による凶悪犯罪は、米国と比較すればまだまだ多いとは言えない。加えて、戦後からの統計を見ればむしろ減っているとも言える。

にもかかわらず、高級官僚の使命感の低下、少年による凶悪犯罪が貧困によるものから複雑な心理的動機へ質的変化を見せている傾向は、多くの人が感じている実感であろう。
これら日本社会が病んでいる事への処方箋は、政治家、財界リーダー、識者、マスコミで、様々に論じ、提言され、政府の審議会等でも答申が出されている。
しかし、提言等の内容に共感出来る部分もあるが、一面を捉えた範囲を出ないと思えたり、また逆に総花的印象を受け、国民が十分に得心するものとはなっていない。

そこで、これら日本社会の昏迷は、どこに根本的な原因があるかを分析整理し、その後に対策の概略の方向性を示し、それに基づき例えば教育基本法の改正案等の個別の施策に落として行くアプローチが私には不可欠と思える。

まず、次の3点が、日本社会の荒廃の原因と思える。

・農村から都会への人口移動、緩やかながら転職社会の到来等による世間付き合い、職場付き合い等の人間関係の希薄化

・高度経済成長が終焉した事による社会の閉塞感

・上記によって、より浮き彫りになった日本社会の「公共(パブリック)」概念の欠如

これらが日本社会にどのように作用して荒廃をもたらしているか、又これに対する処方箋を示せば、それぞれ次の事が言えよう。

世間付き合い、職場付き合い等の人間関係の希薄化については、社会の変化、また人々の人間関係の煩わしさに対する嫌悪により、避け難い流れである。
古来、日本の社会は一神教的神が不在の社会である。人々の道徳心、社会の秩序は罪と神の裁に対する恐れからよりも、世間の目や村八分に対する恐れによる。
日本人が自分の意見を持たない付和雷同的国民性を持ち、日本が他者と違う事を極度に恐れる同質性社会なのは、ルースベネディクト「菊と刀」に示された「恥」の文化により、社会が維持されて来たからともいえる。
つまり、社会の同質性が崩れると、これを土台に成り立っている世間の目や村八分に対する恐れによる社会の維持が困難になってくるのである。
また、超越した神に個人が、1対1で立ち向かう構造でないため、個人々々の自立性が乏しく対等な人間関係よりも、序列よる連鎖的人間関係が主な社会になっている。
人間関係の希薄化による人々の道徳心、社会の秩序の弱まりを穴埋めするものとして、欧米の様な一神教的宗教の日本社会への広範な普及もその一つであると理屈の上では考えられる。
しかし現在、日本のキリスト教徒の割合が人口の1%に満たない事等をとってみても、一神教的宗教は、日本人の精神風土には合わないと言えそうである。
この他、人間関係の希薄化による人々の道徳心、社会の秩序の弱まりを穴埋めするものとしては、NPO、NGO等の機関、団体が考えられる。
一定の社会的貢献を基にした、人々の緩やかな連帯が、米国社会でも、人間関係の希薄化に対抗するものとして考えられている。
旧来の社会に、序列による人間関係に煩わしさを感じる人々が多い日本には、これに代わるNPO、NGO等による人々の緩やかな連帯が、より有効と思われる。
NPO、NGOからの報酬に対する所得税の軽減税率適用等による政府の誘導策も検討されるべきと思う。

高度経済成長が終焉した事による社会の閉塞感については、新しい産業が興り、日本経済に新たな展望が開かれる事が唯一の処方箋である。

次に、日本社会の「公共(パブリック)」概念の欠如についてである。
儒教による「公共(パブリック)」概念は、江戸時代の武士、幕末の志士達の指導者層の間に共有された。
しかし、一般層レベルでは市民革命を経ていなく元々お上によって与えられ主宰された「公(おおやけ)」しか十分に知り得ない日本社会は、敗戦によってそれすらも体を成さなくなってしまったと言えよう。
一部の知識人より、「新しい公共の創造」と言う事が唱えられているが、私の感覚では、むしろ日本社会には「公共」概念が、かつても今も広範にはしっかりとした形では存在しなかったと捉えられる。
これに対する処方箋は、言論により国民個人々々「公共(パブリック)」概念の自覚を喚起する必要があると私自身考える。
また、内外の偉人伝記を興味を持たせるために列伝風に工夫した教材や、「論語」や「自助論」等を基にした授業等、公共心を育成する教育が望まれる。
進んでは、高校・大学入試においても試験科目として採用される事が望ましい。

同時に、何れ改正が予見される憲法の中に「公共(パブリック)」の概念、国家と個人の構造的位置づけを整理した形でしっかりと書き込むことが必要である。この部分が、新憲法の中核的部分となると思う。

上記に同時に取り組み、「公共(パブリック)」の概念とは何かとの国民的議論を巻き起こす必要があると考える。

「公共(パブリック)」の概念の欠如を、日本社会が荒廃する最大の根本原因であると位置付け、日本の背骨を入れ直す事が無ければ、この状況は終わりなく続くであろう。

                                                     以上

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