−提 言−

 ・国家と個人の関係の構造的位置づけ(2000/12/31執筆中)

現在、憲法改正、また教育基本法改正がスケジュール上にあがろうとしている。
憲法については、民主党議員の3分の2が全面改正に賛成であるというアンケート結果もあり、共産、社民は依然として反対ながら、改正はレールの上に乗った様に見える。
論点は、改正の是非から、どの点を如何に改正するかの流れにに移ったと感じられる。
現憲法9条等に示される防衛、戦力の問題は、改正の重要なテーマであるのはもちろんである。
が、本来憲法議論の中心になるべきテーマは、国家と個人の関係を如何に書き込むかであると思う。また改正後の憲法の中枢を占めるのも国家と個人の関係を示した条文等になろう。
一方、教育基本法は改正の是非についてまだ綱引きをしている状況である。
が、教育基本法の核を占めるのも、公共心を如何に涵養するかと、これと個人の関係になろうと思う。

およそ、憲法、基本法となれば、事項を羅列するのみでなく、それが前文であるか特定の条文であるかを問わず、本来核となる概念が無ければならないと思う。
この核となる概念が法に生命を吹き込む事でなければ、十分に機能したものと成らないのではないか。
そこで、国家と個人の関係の構造的位置づけこそ核になる概念であると仮定して、以下論考したい。
まず、歴史上、各国憲法等の中で国家と個人の関係がどのように表されているかを観てみたい。

以下は、アメリカ独立宣言(Declaration of Independence 1776年7月4日)からの抜粋である。

「人間はすべて平等に創造され、創造主から他にゆずることのできない諸権利をあたえられており、それらの中には生命、自由、幸福の追求の権利がある。次に、これらの権利を保障するためにこそ、政府が組織されるのであり、政府は、おさめられる者の同意によってのみなりたつ。

たしかに、軽微で一時的な理由によって長い間安定してきた政府を変革すべきでないのが思慮分別であろう。だからこそ人類は、正当な権限の行使によってこれまでつくりあげてきた政府形態を廃止するよりも、耐えうるかぎりは耐えようとしてきたのである。」

ここでは、創造主が想定され、諸権利はそこから与えられたものとしている。
その上で、その諸権利を保障するために、おさめられる者の同意によって政府が組織されるとしている。
これは、国家(政府)を道具、手段として割り切って捉えている。

また、以下は、日本国憲法(昭和二十一年十一月三日 公布、昭和二十二年五月三日 施行)からの抜粋である。

前文
「ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。

われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」

第三章 国民の権利及び義務
「第一〇条 日本国民たる要件は、法律でこれを定める。
第一一条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
第一二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
第一三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」

ここでは、人類普遍の原理として基本的人権があるとしている。
その上で、その基本的人権を保障するために、国民の厳粛な信託によるものであつて、政府が組織されるとしている。
「公共の福祉」に反しない限り、基本的人権は、侵すことのできない永久の権利としているが、「公共の福祉」について明確な定義をしていない。

以下は、少し長いが、評論家 桜田 淳氏が、明治期の論壇をリードした陸羯南の国家観について解説した「『国家』を飼い馴らせるか」(正論、平成 9年 (1997) 6月 9日)からの抜粋である。

[従来から、国家には、リヴァイアサンやビヒモスといった怪獣のイメージが与えられてきた。また、ホセ・オルテガ・イ・ガゼットが「最大の危険物」と呼んだのは、そのような国家に対するイメージを踏襲したものであろう。

 「住人なきの屋は廃屋なり、住屋なきの人は漂人なり。漂人はその生を保つべからず、廃屋はその用をなすべからず」

 明治言論界の巨峰であった陸羯南は、その著『近時政論考』の中で、このような比喩を用いて、「個人の自由」と「国家の権威」の有り様を示した。「個人の自由」と呼ばれるものもまた、具体的には「国家の権威」によって保障されるものであるが、「国家の権威」が「個人の自由」を侵すことは、極力、避けられなければならない。陸は、「国家の権威」と「個人の自由」の間には、抜き差しならぬ緊張関係があることを見て取った。そして、陸は、「吾輩は国家権威の下における個人自由をもって真の自由と信ずるものなり」と続けた上で、「自由主義は個人の自由を伸長するにあり、国家権威の区域を減縮するにあり。しかれども社会の秩序および個人の権利を保持するに要用なる権威は自由主義もとよりこれを存立せしめんことを望むべし」と喝破した。]

陸の『近時政論考』は、国家を「住屋」に喩え、構造的な部分まで踏み込んでいる。
自由主義を実現するために、「国家権威の区域を減縮する」が、「社会の秩序および個人の権利を保持するに要用なる権威」を「存立せしめんことを望むべし」として、国家権力を道具として捉えている。

また、以下は、自由党の「新しい憲法を創る基本方針(第一次草案)」(日本一新推進本部国家基本問題に関する委員会、平成12年 (2000) 12月 4日)からの抜粋である。

[三、国民の権利と義務について
 国家権力と人権を対峙させる啓蒙時代の発想を克服し、ともすれば阻害されがちな個人の自由を国家社会の秩序の中で調和させる。基本的人権の保障は、国民が享有すべき条理であると同時に、国家社会を維持し発展させるための公共財であると位置づける。
 国民の諸権利と義務は、人類の普遍的原理に基づいて、日本のよき文化と伝統を踏まえるものとする。]

自由党の「方針」は「国家権力」と「人権」を対峙させる事をあえて避けていると共に、「調和」と言う表現で構造的位置づけも避けている。
また、基本的人権の保障は、国民が享有すべき条理であると同時に、国家社会を維持し発展させるための公共財であると位置づけ、一定の制限を加えている。

以上、観てきたように、アメリカ独立宣言は、プロテスタント国家として創造主想定され、諸権利はそこから与えられたものとしている。
その諸権利を保障するために、おさめられる者の同意によって政府が組織されるとし、人工国家のため、非常に構造的で整理されたものになっている。
国家(政府)を道具、手段として割り切って捉えている。
陸の『近時政論考』は、自由主義の立場から、国家(政府)「存立せしめんことを望むべし」とし尊重しながらも、これも「住屋」、手段として捉えている。
それに比べ、日本国憲法と自由党の「方針」は、あまり明確な構造がされていない。また国家(政府)を道具、手段として捉える割り切りが少ないという特徴がある。

筆者の立場は、新憲法には国家と個人の関係を構造的な位置づけで述べるとともに、アメリカ独立宣言の「創造主」に該当する根本的な目標が必要では無いかという事だ。
このため、あえて「世界の向かうべき方向」を設定し、ここから演繹してゆく方法を取ってみたい。
以下、新憲法の為の国家と個人の関係について、試案を述べる。

まず、前文として、下記の文章を挿入したい。
「世界の向かうべき方向は、人類全体の生命、自由、幸福の追求の権利の実現とそれに伴う広範な認識力の拡大、またそれを可能に成らしめる平和で発展した社会の建設にある。
国家は、その基盤として国民を保護育成する為の母船、公器である。

国家は、この様なものとして尊重されるべきであると共に、その目的範囲を逸脱し国民を圧迫したり、他国に脅威を与えるべきものではない。

日本国は、上記に述べた国家の在り方と自国のよき文化と伝統を踏まえ、国際社会の一員として、尊敬される国家となる事を目指す。」

また、国民の権利及び義務については、現憲法を継承するも、「公共の福祉」を前文と関係させ定義する。

「第三章 国民の権利及び義務
第一一条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
第一二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
第一三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」

第十四条 公共の福祉とは、前文に掲げた「人類全体の生命、自由、幸福の追求の権利の実現とそれに伴う広範な認識力の拡大、またそれを可能に成らしめる平和で発展した社会の建設」の事を言う。

以上、ここまで述べてきたが、国家の持つ目的と機能の面について、まだまだよく整理出来ていない感がある。
また、国家と個人の関係に絞って考えてみたが、憲法は、各側面が様々に関連し合っていて一筋縄ではいかないと改めて感じる。
機会を改めて憲法全体について考察したいと思う。

                                                     以上

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