モテナイ独身エトランゼの流浪じみると思われた旅も、城崎という山陰の由緒ある温泉地で、その最終日を無事迎えられることとなった。
今日は8時から朝食を取ってあったため7時半には起床。
これはモテナイグータラ独身エトランゼにしては殊勝なことである。
山陰の、僕にしたら神秘の温泉地城崎での朝は、爽やかな快晴に恵まれていた。
朝食時には、また仲居さんからいろいろお話しを聞く。
このお仕事も昨今の就職難事情にもれず、なかなか就業するのは難しいらしい。
大阪からこちらに出向いて来ているそうで、旦那さんがなんと東京の亀有出身の人らしい。亀有は僕の妹や友人などが住んでいたりして、東京では結構縁の深い場所なので、ここでも不思議なノリを感ずることとなった。
朝食が終わってから、またモッタイナイの一念で朝湯に入ることにした。
この時も誰もいなかったので、一人で思いっきり羽を延ばし、ノンビリ朝湯と洒落こむご隠居さん的時間を味わった。
今日は東京へ戻ることになっていたが、9:42分の京都行きの特急があるので、それに合わせて旅館を出ることにした。
向かいの別の旅館では、もう仲居さん達が部屋の片づけをしているのが見える。
観光地らしい風情を感ずる光景である。
チェックアウト時には仲居さんをはじめ、女性の方3人が送り迎えをしてくれて、モテナイ独身エトランゼにしてはモッタイナくも恐れ多い状況が演出される。
昨日玄関で見かけたお嬢さんが、今日は天気が良くて良かったと一声かけてくれる。
去り際に例の仲居さんが”また来てね、忘れたらあかんよ”みたいなことを言う。
この一言のおかげで、モテナイ独身エトランゼは別に何があったわけでも無かったが、なぜか急にセンチ(センチメンタル=感傷的)になってしまった。
一応表面は爽やかに挨拶してモテナイ独身エトランゼは、まつやを辞したのであった。
旅館を出て駅に向かいだすと、センチな気分がズズーンと一層増してきた。
どういうわけか、そのまま後ろ向きに旅館に吸い込まれていきそうな気分である。
わっ、なんだなんだ、この切ない思いは・・・。
こんな切ない思い、そーいえば、ずーっと昔に体験したような・・・。
遥か昔に女の子とデートした時(ん?、遥か昔で悪かったね)・・・。
・・・と、いうことは・・・えっ?まさか?、恋心?、いやいやまさかな。
でも確かにこんな感じの気持ち、恋愛も似た感情かもしれないな。
いや、そうそう、もっと似たような感じがあった。
ずーっと昔に感じたような・・・、そうそう故郷を離れて、東京に出てきた時に感じた切なさ・・・、それかもしれないな・・・。
駅前の通りでは、カニを売っている元気なオジサンが、土産にどうかねと声をかけてきたりする。
普段人情味に縁遠い生活を送っているモテナイ独身エトランゼには、城崎はとても人間味溢れる街との印象が強く残るのであった。
* * *
特急「きのさき4号」の切符は難なくとれる。
今日はどうやらダイヤは平和に運行されているらしい。
昨日と同じ駅員さんが、例によって関西弁で、新幹線とセットで切符を買うと割引だと教えてくれるので、その通りにする。城崎〜東京9560円、特急840円、新幹線(京都〜東京)4730円(通常5240円)であった。
アクエリアスレモンを買い込んで列車に乗る。
始発ということもあり、ガラガラであった。
やがて列車は出発。
それにしてもまだ大分センチな気分を引きずっているようだ。
昨日の城崎に着いてからの行動が、巻き物を見るかのように思い出されてくる。
下夜久野付近に差しかかると、その時ウォークマンで聴いていた音楽と午前中の回りの山間の美しい景色が見事にアンサンブルし、センチな気分と合間ってどういうわけか異常に感極まった状態になってきてしまった。
何かに取り憑かれたか、これでは本当に恋愛気分に陥ってしまっているような変な状態である。
同時に、これで今回の旅も終わりなんだな・・・という切ない思いもふとよぎる。
福知山、綾部と京都に近づくにつれ人も次第に沢山乗車してきた。都会の日常の象徴のようなビジネスマンの姿もある。
京都に近づくごとに、一段一段下界に降りていくかのような気持ちになってくる。
沿線の渓谷に流れる川では子供がカヌーを乗る姿なども見うけられる。
しばらくして普段は停車しない下山(しもやま)という駅で一時停車した。理由は不明である。事故では無いようだ。
車内販売や切符の検札があった後、ふと隣のボックスを見ると、ちょと小太りだが昔は美人だったかなと思わせる婦人が化粧を始めだした。
最近若い女性でも見かけられる光景であるが、こうした行動は元来オバチャンのものであり、女性の元々のオバチャン気質の発露が最近は単に若年層化しているだけなんじゃないかと思わせる。
その婦人の向かいの席にはビジネスマンのオジサンが座っていて、こちらは熱心に英会話の本を読んでいる。日本の働くお父さんは化粧するオバサンの前でヒッソリと涙ぐましい努力を続けているのである。
程なく亀岡を通過。昨日はここに泊まろうかとも思ったが、今考えて見れば城崎で正解であった。
隣の化粧婦人が降りてしまい、その後釜には又ビジネスマンが座り、オジサン密度が高くなる。
こうして次第に都市都市感が強くなり、下界感も一層増して来る。
* * *
程なく二条、そして京都に到着。
最終的にはなんとか7割程度の混みでいけた。
京都駅が以前出張で来た時よりより大分綺麗になっていた。
時間があったら京都にもゆっくり留まっていきたいと思ったが、どうも出張以来京都駅は素通りがちになって申し訳無い気もする。
京都発12:10「のぞみ」があり時間的にちょうど良かったので特急券をそちらに切り替える。これで夕方には自宅に着けるかもしれない。
しかしこの時間節約の考えがモテナイ独身エトランゼ的に大失敗だった。
モテナイ独身エトランゼの旅の締めは、全く不本意な方向に行きそうになった。
「のぞみ」に乗車すると、そこはモテナイ独身エトランゼの旅の締め的には好ましく無い♂だらけであった。
平日の日中のスーパーは女性客が圧倒的に多い。まさに女性の園、女に会いたきゃ平日スーパーに行け、てな感じであるが、一方それとは対照的に「のぞみ」は、まさに男の園である。男に会いたきゃ「のぞみ」に行け、くらいなもんである。
モテナイ独身エトランゼの旅の締めはハーレム状態、とまではいかなくても、視界にせめてオバサンでもいいから♀がいるような座席で是非ともいきたい。ところが、目の前はこれでもかというくらいに男性でぎっしり詰まっている。「のぞみ立男子高等学校」みたいな感じである。
しかも席がせめて窓側の席だったら、まだ良かったのであるが、あろうことか通路側の席で、車窓の景色を見ながら曲を聴いたり、などということができない。のみならず窓側の人は皆ブラインドを降ろし思い思いに休んでいる。車内はそのブラインドの為薄暗くなっていて、どこか沈滞した物悲しげな雰囲気を呈している。
モテナイ独身エトランゼは頑張るオジサン達の御休息所に迷いこんでしまったのである。
「のぞみ」はビジネスマンが多く、そういった人達の安眠用の為か何なのか窓が小さくて、景色を味わうようには設計されていないらしい。完全に「あたしビジネスマン用に作られました。一人旅の人ご遠慮して下さらないかしら。おわかり?オーラ」を出している。
旅の情緒は極めて少ない。どうもブルースリー主演映画「燃えよドラゴン」に出て来る敵のボス、ハンの要塞を連想させる。
確かにJR側も客のターゲットとしてはビジネスマンの方が利益率も良いだろうし、こんな貧乏臭い、いつ乗ってくれるのかワカランようなモテナイ独身エトランゼを相手にしていたのでは一向に成り立つ商売も成り立たないであろう。それは確かに良くわかる。僕が経営者だったらたぶんビジネスマンには便宜を図ってしまうかもしれない。
しかしこれに比べると行きの寝台の「出雲」なんかは疲れるけど本当に旅の情緒満載だったな、とつくづく思う。
ともあれ現状は最後の締めなのに、「今までの良い感じは一体何だったのよ状態」に一気に転ずることとなった。
飲み会で言うとお茶漬けでサクっと締めようと思ったが、飲み過ぎてゲロ吐いた、みたいなもんである。ちと違うか。
これなら時間がかかっても「こだま」でゆったり行くべきだったと、断腸の思いである。
とりあえず先程から強烈に弁当の臭気と携帯電話の雑音を発生させ、更に僕の視界を遮ぎっている隣のニイチャンが何とか名古屋で降りてくれないかなと祈る。
窓の方をを向いても男性陣の顔しか見えないので、あきらめて読書体勢への突入を試みるが、どうも居心地が良く無い。
これでは暗い室内で、前方を淡々と凝視し電光掲示のニュースでも見続けるか、皆に倣って睡眠状態に入るしか無い。
それにしても、どうもこうして肩身の狭い思いで座っていると「護送」などという単語が浮かんで来る。護送用車両に監禁されちゃったような感が強い。疲弊している時は護送でも助かるが、ついちょっと時間をケチってしまったのが、当方の意図する方向とはかなり異なる方向にいってしまうとは誤算であった。
こちらとしては旅の余韻に浸りながら、途中には故郷も通過するのでそんな故郷の風景にも思いを馳せつつ旅を締めくくりたいと思っていたのであるが、それらを全部破棄し、ここまで環境を悪化させてまで、時間を節約することが果たして今意義があるのだろうか?いや、無い。
それからなんと皮肉なことに車内販売の売り子のネエちゃんが、やたらスタイルが良くカワイイのである。
まるで「のぞみ」用にオーディションして選んできたかのようである。この一事を持ってしても「燃えよドラゴン」のハンの要塞を連想させる。
名古屋に着いたが結局周囲の状況は全く変わらず、むしろ悪化してきたようだったので、意を決して「のぞみ」を下車することにした。せっかく山陰では良い旅の感じだったのに、このままの単なる移動状態で東京まで行くのは忍びない。
第三者的に見れば、こんなことは下らないことかもしれないが、僕にとっては重要なことであった。
それはビジネスマンに囲まれた電車は僕にとって現実の日常の象徴であり、それに乗ることは、僕にとって現実の日常に引き戻されるということである。出張時ならまだしも東京では嫌と言うほど味わえるこの状況を、何もこの旅の最後に敢えて味わうことなど無い、せめて東京までは旅の情緒を引きずっていきたい、という強い思いがあったからなのである。
はかないモテナイ独身エトランゼのコダワリである。
すぐさま「こだま」に乗り替える。
これがまるで僕を待ってくれていたかのように、空いていた。もちろん窓は大きく車内も明るい。
こだまちゃん、なんて可愛いやつなの!
やはり貧乏臭いモテナイ独身エトランゼは「のぞみ」に居ちゃいけなかったのである。
最初から可愛い牧歌的な女性を・・・いや違った失礼、最初から「こだま」で良かったのである。
旅の締めは、もう一度仕切り直しとなった。
今度は一応窓際にも座ることができる。
「やっぱこうでなくちゃな、金と時間じゃありませんな」とつくづく思う。
しかしながら意外に「のぞみ」に迷い乗ったのが効いたか、旅館を出てからのセンチな気分はだいぶ静まり、おかげさまで落ち着いてきた。
切符拝見が来たので、名古屋での事情を駅員に説明。
この駅員がサッカーのかつての日本代表監督岡田監督に酷似している。僕が現状を説明すると、まあそれは勝手だけど、という感じの中に、ちと表情のこわばりが垣間見られたようだった。今さらどうしようもないが当然ながら「のぞみ」料金の払い戻しはできないとのこと。
東海地方ははだいぶ雲が出て来ているようだ。
こちらの「こだま」の売り子のねえちゃんは、「のぞみ」のそれとは全く対照的なポチャっとした牧歌的系。もちろんモテナイ独身エトランゼ的には何ら問題は無い。
「こだま」でも「のぞみ」ほどでは無いが、もちろん所々でビジネスマンを見かける。このモテナイ独身エトランゼも、いずれまたビジネスマンの姿に戻らなければいけないと思うと無性に切ない。結局今日はどうも「切ないデイ」だったようである。
急に、もうこれで完全に普通の土日に戻ってしまったゾ、これで旅は完全に終わったゾ・・・・と諦観の念が沸いてくる。
三島で結構人が乗ってくる。
僕の通路の向こう側の席にはギャルが座ったので、ひとまず安心。そのギャルが良く見たらギャルでは無く、なんと子連れのお母さんであった。ヤンママであった。見間違えた。
余談だがこの方が、なぜか小学校時代の僕の担任だった先生に似ていた。そしてなぜか太股の良く見えるスカートを履いて下さっていて、その太股がやけにまぶしい。心の中で「先生っ!!」と合掌する。
例の岡田監督駅員が時折通りすぎるが、歩き方が猫背で情けない。
さて、東京に近づくにつれ通常の日々に引き戻されていく感じが更に強くなってきた。
今日の朝までのことなのに、あの山陰での生活が懐かしい。
東京にいる時の空気と、山陰にいた時の空気では、だいぶ違いがある。
これは土地の気というか持っているパワーの違いというものなのだろうか?
それとも東京は人が多く、建物も密集しているので汚れてそういう空気になるだけなのか?
旅の魅力というのはこの空気の違いを肌で感じられることなんだな、と今さらながらに思う。
しかし、考えてみると僕が今住んでいる東京のアパートだって、人生のある時期においての仮の住まいなんだな、という感覚はある。特に旅に出ると逆に、その思いを強くする。
つまり、日常もこれ旅なり、なのだろうか。
無事東京駅に到着。
* * *
さて、今回のこの本文であるが、旅行から一年以上たってから書き始めた。
今この旅行を振り返ると、モテナイ独身エトランゼ一人旅史に敢えて位置づけるならば、天候などにも恵まれ、かなりうまくいった部類に属することとは思われる。
一年前のことなので、当然当時のメモやレシートを参考にしながら書いたが、一年のブランクならまだ結構想い出せるもんだなと感じた。
「そうそう、地ビールなんてあったな」などと思い出して思わず微笑んでしまうものもあり、思い出すこと自体中々楽しいものがあった。
メモや証票類はこんな時大切だな、と思う。
他人から見ればゴミのようなものであるが、今や捨てる気には全くならない。
つまり、ゴミもこれまた旅なり、である。
今回は、これでお開き、ということで。
おしまい。 |