一人日本西遊記


その15 5日め(心強いパートナーの巻 エピローグ)

 時間もせまってきたので太宰府を後にすることにした。
 来た時と同じコースで、天神周りで地下鉄に乗り博多へ戻る。
 西鉄では行きにギャルが結構いたのに、帰りは男子学生が大挙して乗っていて僕的には非OK状態。
 ここで神はどうやらバランスをとりなさったようである。
 しかし地下鉄では対面に色白目パッチリの美人が又も座り、最終日の印象にかなり高得点の逆転ポイントを付加してくれる。

 結構余裕を持って太宰府を出たつもりが博多で列車に乗る頃には、ちょうど良い時間になっていた。
 博多駅で夕食用に「からあげ弁当」というのを購入。

 帰りは「のぞみ」では無く「ひかり」であるが、グリーン車である。さすがに空いてた。
 まあ大阪あたりで混むんだろうなと思ったが、結局幸い僕の隣は終始指定は無かったようである。

 定刻に「ひかり」は出発、これで楽しかった西国の諸々の場所達ともお別れである。
 東京までは5時間以上あるが、窓側で空いているので気分も上々で行けそうな感じではある。
 
 回りを見回すと、なぜかアベックが多く見受けられ、モテナイ独身エトランゼに当てつけかい!とも思ったが、途中、売り子の結構カワイイ姉ちゃんが列車の減速の際に、商品のワゴンを押しつつ、つんのめるという貴重な場面も見られ、ここでもやはりこの電車で大正解だったとの思いを強くするのであった。
 余談であるが、新幹線で良く見かけるのだが、やたら何かにつけて立ちあがって何か回りを見渡すような動作をしている人がいる。何か僕ら他の乗客に用があるのだろうか?といつも思う。
 途中おしぼりが出てきて、さすがグリーンは違いますなと差を見せてくれる。ちなみにJR西日本ではタオルのおしぼりであったが、東日本ではペーパータオルのようなやつであった。

 小郡でホームから厳つい方々に丁重に見送られている方がいた。どう見ても明らかにその筋系の人らしかった。

 山陽線はトンネルが多く景色も単調になりがちになり、広島辺りに差しかかったところで急に睡魔が押し寄せカクっと就寝。が、20分程で目が覚めた。

 各駅のホームはゴールデンウイークの帰省ラッシュにより乗降客でごったがえしていて、普通の指定席は完全に飽和状態と思われたが、グリーン車は新大阪でも溢れるということは無かった。ホームの混雑を見るにつけかなり優越感が沸いて来る。

 僕の席のごく近辺は平和だったが、この車両でも遠い他席では結構熾烈な争いが行われていたらしく、一家なのに他の家族の席と相席になっている父親や、指定席を取得したのに日本の鉄道事情に疎い外人グループに乗っ取られた人がいた。
 その外人に乗っ取られたオジサンが、トイレか何かから帰って来た後その非常事態に気づき、驚き狼狽していたようだが、その後僕の隣席が空いていたので一時そこに座った。自分は確かに外人のいる席を取ったのだという証拠の切符を僕に見せつつ、まいっちゃったよなどと嘆いている。オジサンは岐阜羽島で去って行った。結局泣き寝入りしたらしい。

 岐阜羽島では、なんと後から来た「のぞみ」に抜かれてしまった。「ひかり」の権威も失墜したもんである。
 空も次第に暗くなってきて、程なく名古屋を通過、あとは新横浜・東京なので、どうやらずっと一人の平和な席をキープできそうである。
 名古屋あたりになってくると、博多からのって来た人間はなぜか偉くなったように感ずる。
 我が故郷静岡県辺りではもうすっかり夜になっていた。今回の旅の終わりは遅い時間となった。

 ゴールデンウイークの混雑最中グリーンにして大正解だったが、それにつけても今回もまたモテナカッタようですな、と、せっかく高尚なテーマを立てたにも関らず、結局モテタかモテナイかに、いつの間にかこだわっている寂しいモテナイ独身エトランゼの旅の終わりでありました。

   *   *   *

 さて、これで僕の一人西遊記も終わったのであるが、アカデミックなテーマを掲げた割には終始オネエチャンにばかり気をとられていたのでは無いかと、ある意味真実を穿つような鋭いご指摘を受けそうなので、最後に旅行と音楽について高尚に述べることでそれを誤魔化したい、いや失礼、締めくくりとしたい。

 僕が旅行に行く時にウォークマンは欠かせない。
 僕にとって旅先で音楽を聴くということは、単なる時間つぶし以上の意味がある。 

 どういうことかというと、まず持っていった音楽を旅行中繰り返し聴き、その音楽にその旅のイメージを焼きつけるのである。
 そして旅行後に、その曲を聴いた際に、容易に旅先でのイメージが脳裏に復元されるようにするのである。

 これは学術的には「プライミング効果」というらしい。ある何かを、キッカケとなる別の何かとセットで記憶するという働きである。この効果によって非常に効率的に物事を記憶できるようである。
 僕の場合「音楽」を旅の記憶のキッカケにしているのである。
 この旅にはこの曲、この旅にはこの曲と、旅毎にそれぞれを彩る曲がある。だから新しい旅には今までと重ならないように、まだ持っていったことの無い言うなれば「新曲」を用意していく。
 こうしてうまくいけば、その曲を頭の中に思い出すだけで、自然に旅の情景もセットで想い出せるようになる。

 旅行先でのイメージというものは、僕にとってかなりハイな好ましいイメージが多い。
 その為、後で旅の情景を想い出した際に、精神を好ましい波長にセットしやすくしてくれる。
 要するに旅先での自然や街のイメージを後で復元させることで、頭の中に僕自身のオリジナルな風景画をイメージするような、イメージトレーニングのようなことをする材料にしているのである。
 
 このイメージトレーニングは僕にとって、皆さんの想像以上の効果をもたらしている。
 イメージというのは大きな力があって、精神は自分がイメージした図と同じ波長に同調する。
 「良いイメージ」を想起することで、自分自身の現段階での最良の波長に、また気分をセッティングし、精神を安定させることができるのである。

 ブルーになると人間何かにすがりたくなるもんである。
 それは、人・食べ物・音楽・本などさまざまである。
 しかし、いつもそうしたものが手元にあるとは限らないし、むしろ無い時に限って自分をダウンさせるような事態が発生する。人に至っては、すがった人との摩擦が原因で、かえって余計ブルーになったりする。

 そんな時活躍するのが「良いイメージ」である。
 「良いイメージ」というのは無料で、いつどこでも手軽に頭の中から入手できる。
 僕個人にとっては、たまたま「旅のイメージ」というのが有効であるが、これは人それぞれいろいろあって、人により、綺麗な花の映像や、発表会やイベントなどでの自分の活躍シーンや、合格発表の時のシーンなど様々なイメージが有効になるかと思う。

 只なぜ「旅のイメージ」が良いか思ったのであるが、例えば精神安定の為のイメージトレーニングする場合に、良く自然の風景・綺麗な景色を想起せよなどと言われることがある。しかしこれは綺麗な景色といっても現実感の無いどこか異国の風景を単純に想起しても効果が薄い場合が多い。
 ところが、これが自分が行ったことがあり、実際見たことのある風景となると、その現実感が加味されて俄然イメージにパワーが注入されてくるのである。
 この「現実感」というのは、かなり効果のあるものなのである。
 ゆえに「旅のイメージ」というのは、そうした「現実感」が豊富にあるので効果的なのだという気がする。
 とすると逆に言えば、イメージトレーニングをする場合、「現実感」の無いものをいくらイメージしても効果が薄いと言えるかもしれない。

 ここで人生において「体験」ということが意味を持ってきて、重要性を帯びてくるのである。
 結局人生というのは単純であるが「体験をする」ことであり、「体験」しなければ肉体を持って地球に存在している意味は無いのだろうし、観念だけで生きることができるのなら何も地球にいて肉体を装備している必要は無いのである。
 「良いイメージ」の蓄積が少ないうちは、悪いイメージ軍団にともすると負けそうになるが、「良いイメージ」の蓄積が増えて来ると、次第にパワーが増幅して来て、次の「良いイメージ」の構築も楽になって来る。 
 そうして悪いイメージに太刀打ちできるような力がついてくる。要するに「経験」が積まれて来るのである。
 僕が旅に出たくなるのはきっと「良いイメージ」の蓄積をもっともっと増やしたいと潜在的に思っているからなのであろう。

 なんか大げさになってきたのでこの辺で本当に締めくくりたいと思うが、なんといっても旅に音楽があれば、それは一層旅を楽しいものにしてくれる、という単純なことがやっぱり僕にとっては大きいのである。
 言うなれば音楽はモテナイ独身エトランゼの一人旅の、心強いパートナーなのである。

おしまい。

●上記レポートを読む場合の推奨BGM
                  キリンジ:「君の胸に抱かれたい」(マキシシングル) 


その14

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