一人日本西遊記


その7 2日め(我モテタイと欲すの巻 津和野)

 津和野に到着。
まず最初にコインロッカーに荷物を預ける。これで大分楽になる。

 何はともあれ今日の第一目的である、森鴎外の記念館に向かうことにする。
途中殿町通りというメインストリートを経由、それから裏道に入ったりなどしながらもブラブラ歩いていく。

 観光客が多い。さすがに連休中というだけのことはある。
ツアー客らしき一団もいる。レンタサイクルで行き交う観光客も多い。ツーリングのアンチャン連中もいる。
当初津和野に宿泊しようと思っていたが、きっとこれじゃ今日はどこも満杯だったろうなと思った。

 町役場や養老館の前には人が集まっている。その前の堀には津和野名物という大きな鯉がウヨウヨ泳いでいる。

 津和野大橋というところを過ぎると、ちょっと人通りも減ってきた。
大部分は橋を渡らず、たもとの弥栄神社やその先の太鼓谷稲成神社方面に行くようである。

 僕は鴎外記念館に行くために、橋を渡る道を進む。

 鴎外の生家は駅からは、結構遠いところにある。
歩いて行ける距離ではあるが、時間はかかる。
そこまでの街並みを見たり、途中の名跡等に立ち寄ったりしながらいけば、まああまり遠く感ずることは無いであろう。

 鴎外記念館に到着。
まず生家から見学、入場料がいる。生家の向かえの商店で販売している。
気さくそうなオジサンが売り子のように手に入場券を持って売りさばいている。100円なり。
入場券の自動販売機もその雑貨屋の店の前にある。店の前にある佇まいが、見ようによっては、コン○○ムの販売機的様相を呈していると言えなくも無い。

 記念館は鴎外の生家の裏手に隣接していて、生家の入場券を見せると、その分入場料を割り引いてくれる。
奇麗な建物である。人の出入りはやはり多い。

 鴎外は10才で津和野を後にしてからは、ついぞ津和野へ戻ることは無かったそうだ。
でも彼の遺言に「我、石見人森林太郎として死せんと欲す」と記したように、終生津和野(石見国)に望郷の念を抱いていたようである。
遺言に「私は島根人として死にたい」とか「私は東京人として死にたい」とか「大阪人として死にたい」と明言する場合、それはやはりその地への愛着というのが、かなりあってのことだといえる。
その気持ちよーくわかる。
僕だとさしずめ「駿河人として」になる。今故郷を離れてはいるが、魂はいつも「駿河人」のつもりである。
かっこつけてるわけでは無いが。
ちなみに「河童星人」ではないかという説も、もちろんある。

 ところで鴎外は文学者であり軍医でもあったが、明治の知識人として常に、日本と西欧、個と社会など、二つの対立する世界の狭間で、その矛盾に大いに悩んでいたという。

さすが鴎外。

 僕などは、まだ独身か結婚かの二つの対立する世界のはざま付近で悩んでいる。
いや、まだそのレベルまでもいっていない。
まず、モテテイルのかモテテイナイのか?、その辺の二つの対立する世界の話から始めなければいけない。
同じ悩みでも、モテナイ独身エトランゼの悩みと、明治の日本を代表する文豪の悩みとでは、かな〜りレベルを異にするのである。
そのレベルの差たるや、歴然としたものがある。

 僕の場合「我、駿河人として、モテテ、死せんと欲す」と「モテテ」という僕にとってはかなり重要なフレーズを挿入して遺言したいくらいである。ま、どうせ遺言なら「我、駿河人として、飽く程にモテテ、死せんと欲す」と「飽く程に」を追加挿入するか、あるいは「我、駿河人として、気も狂わんばかりにモテテ、死せんと欲す」という風に「気も狂わんばかりに」などと入れて、壮絶にモテテイル様を表現した方がいいかもしれない、などと考える。
「でも遺言する頃になって、モテようと欲しても、しょうがねえしなあ」
・・・などと、このモテナイ独身エトランゼの低級な悩みはつきない・・・。
 

 余談であるが、鴎外の娘さんには「アンヌ」さんという人がいる。
今でこそこういう外国っぽい名前は一般的につけられるようになったが、実際誰の発案か定かでないが、とにかく当時子供にこうした名前を付けているなんて、やはり先進の気鋭に溢れていたんだなという気がした。

 鴎外記念館を出てからは、来た道は戻らずに、津和野川沿いの土手をノンビリと歩く。
ここは鴎外も幼少の頃良く通った道らしい。
この道はなぜか、あまり人がいない。「こういうところを歩いてこそ旅なのにな〜」などと知ったかぶったように思う。
 この道は確かに良かった。左の山の上には津和野城跡、僕は行かなかったが川向こうには西周の生家もある。川岸は近代的な工事を施してしまって、ちょっと興ざめた感も無きにしもあらずだが、山間の田舎の落ち着いた雰囲気があって良い。
ゴールデンウイークでなかったら、人も少なく落ち着いたいい街なのだろう。

 また津和野大橋まで戻ってきた。今日は津和野カトリック教会のイベントがあるらしく、近辺も賑わっている。
これはちょっと人が多すぎて抵抗感があったのでパス。

 次に第二目的の「北斎美術館」に向かう。
北斎とは葛飾北斎。江戸の生まれ。なぜこんなところに北斎の美術館があるかというと、館長さんが、この津和野の出身だからだそうである。

 普段我々が目にする北斎の作品は、結構限られているが、実際北斎自身はその作品の種類範囲はかなり多岐にわたっているようである。
北斎漫画などを見ると、その筆致の精密さに驚かされる。
いわば今で言うイラストレーター並みである。てゆーかー、今北斎が生きていたらおそらくイラストレーターと呼ばれていたかもしれない。

 ちなみにちょっとタイムリーな話題だが、僕がこの北斎美術館に行って数週間後の5月27日、この北斎美術館で、北斎の幻の柱絵と言われている「富士見西行」と思われる新たな柱絵が発見された、という記事が新聞紙上(朝日)に掲載された。米国のガレージセールにあったものを、業者経由で数年前に北斎美術館が入手していたとのことである。6月1日から、仙台の百貨店の藤崎本館というところで開催される「葛飾北斎名品展」で初公開されるそうである。
なんだ、この時期発表するなら、「なぜ僕が行った時は、黙ってたの?」という感じである。
よく芸能人が、親友と思っていた芸能人の結婚を新聞で初めて知った、などという話を聞くが、それと同じである(ちと違うか)。

 北斎美術館を出る。
今日の僕の津和野での目的は第三目的まであった。
あと一つは「源氏巻」なるお菓子を購入することであった。
これは細長い形をしていて、あんこをドラ焼きの皮の薄いやつで巻いてある和菓子である。

「源氏巻」の店は津和野には、至る所にある。
ガイドブックを見ると、「藤村山陰堂」という店が老舗だということで紹介されているのでそこへ向かう。駅のすぐ近くであった。
他に結構混んでる店もあったが、藤村山陰堂は僕が行った時には客がいなかったのですぐ購入できる。これ、ホテルに着いたらおやつとして食べよっと!と子供のようにはしゃぐ。

 一通り目的は達成されたので、そろそろ津和野も出立しようと思い、駅で電車の時刻を確かめる。あと20分でちょうどいい各停が来る。

しばらく時間があるので、ちょうど停車中であったSLの写真を撮る。
改札ではこのSLの切符を取ろうと列ができている。相変わらずアイドルである。

 コインロッカーから荷物を戻して、駅のベンチで電車に乗る準備をしていると、僕の前のベンチに、中学生位と思われる少女達が5、6人ドヤドヤと座る。皆リュックをしょって、ハイキングらしき格好をしている。
そのうち僕の隣に、40代くらいのやはり少女達と同じような格好をした眼鏡の婦人が座る。
皆何かの戦いに敗れた後のように、どっと疲労感を漂わせている。特に婦人の疲労感が強いようである。
少女達の一人が「先生、乗れるって言ったじゃん・・・」と非難めいたことを言う。
どうやらSLに乗りたかったらしい。
婦人はどうやら彼女達の先生らしい。生徒を引率してハイキングにでも来たのだろう。

 推測するに、先生の楽観的な考えでは、SLには、普通の電車と同じように、そのまま乗れるとふんでいたのであろう。
ところが実際は指定券が無いと乗れないので、慌ててそれを買い求めようとしたがご覧の混雑で、結局切符が取れなかった、というようなシナリオが彼女達の間に展開されていたことが推測できる。
少女達は、かなり疲労しているようで、先生を非難する言葉も力が無い。
先生も虚脱状態のような顔をして、生徒の非難を聞くともなく聞いているようである。

 SLもまさか、自分がこんな諍いのネタになっていようとは夢にも思っていなかろう。
そんな諍いも意に介さじといったふうに、SLは元気に汽笛をあげる。

僕の電車もちょうど来る時間となったので、ホームに向かう。

続く。

●上記レポートを読む場合の推奨BGM
                  キリンジ:「太陽の午後」(「ペーパードライヴァーズミュージック」収録) 


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