ザ・ロング・アンド・ワインディング鎌倉街道


【中道(西回り)】千川〜赤羽(宝幢院)2001.7.29(日)晴 その2

 山中橋をしばらく行くと再び緩やかな登り坂になり、やがて環状七号線と交わる。
 ここから先は実は旧道が無くなっているので、とりあえず赤羽方向を目指して適当に歩いていくことにした。

 北豊島工業高校の横を抜けていくと「エスビー通り」なる通りが出て来た。すぐ近くにS&B食品の工場があることから命名されたらしい。
 そこを更に抜けちょっと右折する感じで進んでいく内に、運良く「稲荷通り」という小さな商店街に差しかかった。
 鎌倉街道本道とは多少ずれてしまったが商店街好きの僕には、こういう発見は非常に喜ばしい。
 僕の前をいかにもスナックのママさん風のオバサンが歩いていたので、その後をついて行くような感じで歩いていくと左手に稲荷通りの名前の由来を発見、清水稲荷神社があった。

 更に行くと本屋があり、この小さな商店街には意外な感もあったが、折しもその店から黄色いTシャツとホットパンツを履いた健康そうな少女が弟と思われるような小さな子供の手を引いて丁度出て来た。

 僕は街道の散策をしていると、こうした古い街の情景の中で何か輝くような少女にしばしば出くわす時がある。
 地味な散策の道程において一瞬でも清涼感を与えてくれる美しいこうした少女達は、モテナイ独身エトランゼにとって、詩的に言うならば、きっと天使なんだろう、と勝手に解釈することにしている。
 もしくは昔風の表現で言うと、まあ道祖神みたいなものなのだろう、と勝手に解釈することにしている。
 街道途中で見かける美しい少女は「僕的道祖神」なのである。

     *   *   * 

 稲荷通りを抜けたら国道17号線である。
 つまり中仙道との交差地点にやってきたことになる。
 自転車の前に弟を乗せた「僕的道祖神」が、僕を追い越し更に東へ行くので、僕は道祖神に従い更に東へ向かうことにした。
 本来なら途中中仙道の旧街道が有り、左折すれば又旧鎌倉街道に合流できたが、更に東へ行くことにしたのは、鎌倉街道ハズレついでに国立西が丘競技場へ行ってみよう、という想いが「僕的道祖神」の導きで(?)沸いてきたからである。

 国立西が丘競技場というのはサッカー好きの人にはお馴染みかもしれない。
 僕自身実際ここに良く足を運んでいるという訳では全く無いのであるが、実はここは僕の中では東京を語る場合の結構キーとなるスポットになっている。

 高校2年生の時、僕の母校が正月の高校サッカー選手権の静岡県代表に選ばれた。
 僕はその大会に応援団として同行した。
 その当時試合が行われたのが、この西が丘のサッカー場なのであった。
 試合は一回戦で負けてしまったので、東京での滞在は一泊のみであったが、かくして棚ボタチャッカリラッキーで図らずも僕は憧れの東京に行くことができたのである。ちなみに、その時は僕にとって生涯2回目の東京であった。ちなみに、ちょっと一口メモであるが、その年の優勝校は東京の帝京高校で、とんねるずのノリさん(木梨憲武)が所属していたそうである。

 ところで僕は全然応援団キャラでは無いのだが、何の因果か応援団になってしまい、その選出の経緯は半ば強制的だった感もあった。
 応援団は当校では委員会制になっていて応援委員会と称され、そして応援団員は応援委員ということになっていた。
 新入生の時、その応援委員の選出に当たって、クラスから男性2名を選出ということになっていたのであるが、条件としてその時点でスポーツ部に所属している者・他委員に選出済みの者は除く、という条件が出された。
 この条件に該当したのが、なんとちょうどクラスに2人しかいなかったのである。
 こうして美術部だった僕は、全く6歳児が普通に義務教育を受けるべく小学校に入学させられるように、有無を言わせず自動的に応援委員にさせられてしまった。

 最初は渋々だった、この委員であるが、これがやってみると意外に楽しかった記憶だけが残っているのである。
 この応援団、応援団とは名ばかりで、まあ集まって来た連中も僕の選出理由からおわかりいただけれると思うが、僕のような文化部所属のヤツラばかりなので僕同様応援団キャラには程遠い連中がほとんどであった。
 しかしこれが同類相通ずるというのか中々楽しい連中なのであった。
 応援の練習も他のバリバリの真正応援団様方のものと比べたら、全く比べ物にならないくらいいい加減でひ弱で貧素なものだったかもしれないが、そういった雰囲気だからこそ丁度僕のようなものにも馴染んで務まったと言えるのであった。

 さて、こうして僕はその年強い母校のサッカー部のおかげで、東京は西が丘のサッカー場まで行くことができたのであるが、その翌年(1981年)、今度は大学受験の為、千葉の松戸の親戚の家に2週間程宿泊させてもらい、その際に再び東京へ足を運ぶ機会が出来た。
 これで3度目の上京になったが、その際になぜか又西が丘のサッカー場に行ってみようと言う気になり、再びここを訪れたのである。
 せっかくの東京なんだから原宿でも渋谷でも他に幾らでも行く所があろうに、なぜわざわざ西が丘のサッカー場に来てしまったのか?。当時の気持ちはもう良く覚えてはいないが、まあ大方「昨年来たから」というだけの軽い気持ちだったのであろう。

 しかし今から思うと、この時の西が丘サッカー場からの「東京での小旅行」の印象が後年の僕の東京のイメージを決定づけている意外に重大なイベントであったような気がするのである。
 当時は西が丘から板橋へ行き、そこから十条、そして最後は東十条の駅から松戸まで帰っていった記憶がある。
 もちろん当時東京はようやく3度目だったので、東京のイメージと言えば銀座や六本木、新宿のような華やかな街のイメージしか無かったが、この日僕が見た「東京」は、赤羽の公団が並ぶ住宅地であったり、閑静な住宅街に女子大や広い公園のある場所だったり、駅の回りにひしめく様に並んだ下町風情の商店街だったり、東京にはこんな場所もあるんだと目にするものが全てとても新鮮に映ったものであった。
 その他にもNTTの赤い大きな鉄塔や、当時赤羽線と称していたと思うが、その赤羽線(現在の埼京線)に掛かる環七の高台の橋から見た、実に庶民的な街の情景などが今でも印象に残っている。
 この時東京で感じた、ちょっとした旅情めいたものが今でもずっと残り続けていて、しばしば僕を東京散策へと触発している気もしないでもないくらいである。

     *   *   * 

 さて、現在の僕は西が丘のサッカー場の回りをトボトボと歩きつつ、こんな感じだったっけかなー?と、ほとんど記憶の底に埋没してしまっている20年前の朧げな出来事のディテール(詳細)を辿ろうとしていた。
 そしてサッカー場の北端に差しかかった際に道路を挟んで向こう側に在った高校に目が行った。
 そしてその高校「赤羽商業高校」のプレートを目にした途端、突然僕の脳裡に20年前のハッキリとした印象が滝のように流れこんできた。
 3度目の上京時「東京での小旅行」での来訪の際、僕は同じ場所で全く同じ行動をとっていたことを急に思い出したのである。
 あの当時、西が丘のサッカー場を出て更に東へ向かおうと思っていた際に、眼前の建物に目が行き「何々?赤羽商業?、ここ赤羽なのか」と思ったなどと言う、ほんの些細な記憶が、当時と同じ場所、同じ状況に置かれたことによって、偶然にも蘇って来たのである。きっと時間も同じくらいだったのだろう。

 僕は急に昔に戻ったような気がして嬉しくなってしまった。
 そしてその後すぐ近くにある歩道橋に駆け登った。おそらく20年前も同じようにしたように。人生で数度も来ていない場所なのに、そこから見る景色はなぜか妙に懐かしいものであった。
 赤羽商業、それからすぐ脇の自衛隊駐屯地の広く古めかしい情景、サッカー場の近代的で整備された雰囲気、威容を誇るNTTの鉄塔、そして遠くに見えるサンシャイン60の姿・・・。
 「そうそう、これこれ・・・、この景色だよ・・・」
 僕は若返ったような気分に浸りながら、しばし歩道橋の上で佇むのであった。 (2001.8.25)

続く。

●上記レポートを読む場合の推奨BGM
    山下久美子:「1枚だけのビリージョエル」(「バスルームより愛を込めて」収録)

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