ザ・ロング・アンド・ワインディング鎌倉街道


【中道(西回り)】千川〜赤羽(宝幢院)2001.7.29(日)晴 その1

 地下鉄有楽町線の千川の駅から出発である。
 昼下がりで若夫婦の買い物姿などの見かけられる要町通りを西にしばらく行くと、やはり又南北に商店街が見える。
 どうやらそれが旧鎌倉街道のようである。

 今日はここから北に進むことにした。
 すぐに六差路があり、真ん中の一番細い道沿いに板橋高校があるが、その道が旧鎌倉街道の本道だとのことである。

 しばらく民家が続くが、こうした住宅地で良く見かけるのが「空き巣にご用心」の貼紙である。
 「不審な人を見かけたら、すぐに通報を!」などと添書きしてある。
 通行人に対し「余計な事したらすぐに警察呼ぶからね!」というあからさまな敵意が見て取られる。
 この貼紙には自称孤高の旅人私モテナイ独身エトランゼもいつもながら心にナイフを突きつけられたような痛い気持ちになるので辛いところである。

 もちろん僕は空き巣でなど絶対に無いと100%言い切れるが、じゃあ「不審な人」では無いのか?と問われると、100%不審でないとは言い切れないので、途端に萎んでしまう。
 もちろん自分では「不審」とは思っていないが、他人が不審と思ってしまったら、もうそれは「不審」なのである。
 「空き巣」だったら自分が天に誓ってやっていなければ100%空き巣では無い・・・。
 何もこんなところでムキになることはありませんでしたな。

 ともあれ昼下がりの住宅地で見知らぬ青年がデジカメやデイパックを持ってウロウロしていたら、10人中9人は「不審」と思うであろう。しかしこの昼下がり一般住宅地散策を克服できなければ、真の旧鎌倉街道通とは言えぬ。真の旧鎌倉街ディスト(なんじゃそりゃ?)は、こんなことでヘコタレてちゃいけないのである。

 ま、そんなことはどうでもいいとして、この道もしばらく行くと最初の商店街・バス通りと合流し、更に日大医学部のある大谷口まで来て、別の街道と合流するようになっている。
 この付近もちょっとした商店街風情で、以前にも自転車で何回か来たことがあった。
 真っ直ぐ行くと、東武東上線の大山へ行くが、鎌倉街道は左に別れ北上する形を取る。

 更に行くと川越街道と交わる地点に来た。
 ちょうど川越街道の旧街道とも交わっており、今は随分賑やかにはなってしまっているが、昔の面影を偲ばせている。

 道は更に真っ直ぐ北上し次第に緩やかな坂を降りる形になる。この坂はおそらく石神井川によって台地が削られてできたものと思われる。

 坂の途中で僕の好みのショートカットの婦人を見かけたので、様子を伺っていたら、何やら一緒に居た男性とモメて(に見えた)いるようであった。
 モメているというよりは、立った姿勢の女性が一方的に座っている男性に対して舌剣を浴びせていたので、一言も発しないで何か哀しげな表情で女性を見上げている、ちょっとアフロヘアー気味の男性が気の毒になってしまうくらいであった。実際モメテいる訳では無かったかもしれぬが、パッと見がいかにも女性が男性を論破しているかのような状態であった。

 しばらく行くと「轡(くつわ)神社」と言う小さな神社が左手に見えてきた。
 以前僕は東京の練馬に住んでいたことがあったが、その当時のとある日に会社から帰宅する際、どういう訳か東武線の中板橋駅から西武池袋線の練馬駅まで歩いてみようと思い立ち実際歩いたことがあった。
 当時は、おそらくこの鎌倉街道を今とは逆行しつつ南下していったようであるが、その時にこの「轡神社」の前まで来て、こんもりした木があった為、昔ながらの民家だろうと思って興味本位で覗いてみたら古い祠が出て来たたので「なななな、なんだ、じ、じ、じ、神社か・・・」と多少不意を突かれ驚いた記憶がある。
 そんなこともあり結構ここは印象に残っていたのである。

 更に僕がこの神社にちょっとした思い入れを感じたのが、この神社の祭神が「日本武尊(ヤマトタケルのミコト)」だということなのであった。
 日本武尊が実在したかどうかは諸説あるが、実際日本武尊に象徴されるような人物によって「東征」が行われたことは事実らしい。
 従って日本武尊一行が東征の際に、この近辺に立ち寄った可能性があるということになる。

 ところで僕の郷里に焼津神社という神社があり、ここの祭神も日本武尊である。
 焼津神社は市内随一の神社で地元の氏神として、古くから地元民に信仰されている由緒ある神社である。
 更に僕の実家のすぐ近くに日本武尊の「沓脱ぎの跡」という史跡がある。
 今から思えば、ここだって日本武尊一行が東征の際に立ち寄った場所であることの証であるが、小さい頃は全くそんなことは意識さえもしなかった。
 焼津神社も「沓脱ぎの跡」も子供たちにとっては恰好の遊び場であり、僕も良く遊んだものであった。
 僕にとって日本武尊は言うなれば最も早い頃から馴染みのある偉人だったのである。

 そんなこともあり、関東近辺で日本武尊に縁のある場所を見かけると、そこは東征の際に立ち寄った場所として、僕の郷里と一本の線で繋がっていくような気がして、親しみを感じ感慨深くなるのである。
 僕が旧鎌倉街道に惹かれるのは、悠久の昔に日本武尊の通った道が、後年鎌倉街道の母体になったから、ということもあるのかもしれない。

      *   *   *

 この先東武東上線に差しかかる。
 前方に「なかいた」と書かれたプレートが掲げられた商店街が見えて来た。
 ここに始めて来たのが今から18年ほど前の学生時代に遡るが、当時もやはりブラリとやってきた。
 当時僕は新聞配達のバイトをしており、現在の池袋と大塚の間辺りの区域を担当していたのであるが、夏のある日だったと記憶するが朝の配達が終わった後、店には戻らず、そのままそこからブラリと自転車で足を延ばし、この中板橋まで来たことを覚えている。
 当時まだ東京に来てまもなく、中板橋のような私鉄沿線の街が妙に都会的に見え新鮮で、田舎のビルよりも高い朝の駅前のマンションや、まだ静かな私鉄沿線の商店街の情景が印象に残っている。
 今回久しぶりに来たが、18年前の印象と、それほど変わっていないような気がした。
 余談であるが当時配達後のサイクリングを終え店に戻ると、所長に”不着(未配達)等の連絡があるといけないから配達が終わったら必ず一旦店に戻れ”と怒られたことも良ーく覚えている。

 さて商店街を抜けると石神井川に掛った山中橋に差しかかる。
 この橋は昔板の橋だったと言う言い伝えがあり、それが「板橋」の地名の由来になったという説があるそうだ。
 現在はコンクリートの随分頑丈そうな橋として現役を続けている。(2001.8.9)

続く。

●上記レポートを読む場合の推奨BGM
    山下久美子:「次の駅に着いたら」(「バスルームより愛を込めて」収録)

その2
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