「2001.4.23(月)」晴・鎌倉街道、本になった
古の旧街道を探索・紹介するテレビ番組「鎌倉街道夢紀行(テレビ埼玉)」の「中道(なかつみち)編」が3月で終了し、僕が見ていたMXテレビの方も、来週の日曜で最終回になる(朝7:00〜7:15)。 この番組の「上道(かみつみち)編」の内容が、なんと本になったということで早速入手した。
ところで旧街道沿いには、数々の史跡や寺社仏閣が残されている。
いやしかし、本当は街道沿いだけに、それはあるのでは無い。
僕はそんな中から偶々好きな街道に、それを探そうとしている。
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「2001.4.22(日)」晴・中也の気配
今年もゴールデンウイークがもうすぐやってくる。
ところで、その昨年行った場所の中に往年の詩人中原中也の故郷、山口県の湯田温泉があった。
良く「タイムスリップする」などということを言うが、本当に中也の生きた時代にタイムスリップしたかのような感覚になった。
キザな言い方をさせてもらうと中也の意識が自分に流れ込むというか、何か寂しい街の閉塞感と上京への決意やら都会での恋人との生活やら友人との反目やら身近な人間の死やら何やら、そうしたものがゴチャマゼに一気に押し寄せてくるような何か言い知れない重苦しさを感じてしまったものであった。
そう言えば芭蕉が平泉で「夏草や兵共が夢の跡」という句を詠んでいたが、もしかしたら芭蕉もその時に何か僕と同じような強烈な古のリアリズムを感じとっていたのかもしれんな、などと思うのであった。 オジサンは歴史に惹かれていくが、まさにこのリアル感、特に旅先でのリアル感こそ、歴史に魅了されるキッカケだという気もする。 |
「2001.4.21(土)」雨後曇・水の気配
画面上で現実感を追体験するヴァーチャルリアルティというのがあるが、やはり映像と実物ではかなり「何か」が違う。
以前岐阜の郡上八幡に行った際、岐阜から高山本線に乗って乗換駅の美濃太田まで向かう途中、車窓の景色を眺めていて、ふと「実家の雰囲気に似てるな」と感じたことがあった。
それにしてもなぜ岐阜まで行って、故郷と似た雰囲気を感じたのか?。
さて、我々は人とのつき合い等においても、相手が自身の事情をあれこれ説明してくれなくても、その前に直感的に合うとか合わないとかを結構「気配」などで感じていることが多い。
人とのコミュニケーションは、今現在「見た目」と「テキスト(言葉)」によってのみ行われているように思われがちである。であるから、この2点のみに注意すれば良いように思われるが、実際はもっと、その人の醸し出す雰囲気を、かなり大きな情報として感じていることが多い。
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「2001.4.20(金)」晴・来年があるさ
「明日があるさ」という歌がリバイバルでヒットしている。
ところで、こんな若干ショゲ気味の僕にも、俄に明日の到来を前向きに所望したくなるような一件が判明した。
この一件により俄然「明日があるさ!!」になってきたことは言うまでも無い。
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「2001.4.19(木)」曇後晴・通帳記入に卑屈
男たるもの金が無い時でも卑屈にならず大らかに堂々たる態度でありたいものであるが、どうも私モテナイ独身エトランゼのような身分であると、修行が足りないのか預金残高の大小に今だに精神状態を左右されやすい。左右どころか前後上下も加え、むしろ残高に「翻弄される」などと言った方が良い。
そんな具合であるから、大きな引落としが有りその後の預金残高を確認する為に銀行に通帳記入しに行く時などは、必要以上にオドオドしてしまっていることが多い。
そんな際は当然なるべく人の少ない時間帯を選ぶ。
給料日まで大部あるが残高は大丈夫だろうか?、来る電話代とガス代の引落としには対応可能なのか?、果たして食費は残っているのか?。
幸い人の少ない時間帯に行くことが出来るのであるが、ここであろうことか傷心(小心?)のモテナイ独身エトランゼの神経を逆なでる事態が発生する。
きっと銀行側もいろんな配慮でそうしているのだろうが、あれこそ僕のようなモテナイ独身エトランゼとってには「余計なお世話」の最たるものとまで言いたい。
僕が機械の前に立ち、財布の中のカードを探してマゴマゴしていると、
そして残高を確認し、金を千円単位で少しだけ下ろした後、後は通帳を記入しコッソリ帰宅しようと思っているのに、その段階になると、
ジーコジコジコと記入が終わると、すかさず「ツーチョーをっ、お取り下さいっ!!」などと追い打ちをかけてくる。僕には『受け取れるもんなら受け取ってみな、ほーらガックリ来たでしょ、その残高。』に聞こえてくる。
・・・ともあれ全く、余計なお世話ばかりしてくれるもんである。ハアーッ・・・(ため息)。
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