Monologue2001-04の補足

「2001.1.20(土)」・「燃えないゴミ出さなきゃ」の続き

 ・大胆な仮説その1「燃えないゴミ流行ってる説(挨拶説)」

 まず僕が打ち上げたい大胆な仮説がこの「燃えないゴミ流行ってる説」である。
 これは事実上の「挨拶説」もしくは「挨拶的枕詞説」ともいえる。
 そもそも挨拶というというのは、出会う二者の間の「共通な話題」が素材として用いられ易いという説が前提となり得る。
 この前提となる説はT大名誉教授の出会頭驚太郎博士の「メタモニック挨拶併合理論」に基づいている確固たる定説である。

 「共通な素材」として最も一般的なものは「天気」である。
 「いい天気ですね」「本当に」
 これだけで、まあ一応挨拶として成立する。
 また、これ以外にも関西では「景気」が素材として有効活用されていると聞く。
 「もうかりまっか?」「ボチボチでんな」
 これだけで、まあ一応挨拶として関西地域においては成立する。

 このように見て来ると、実は「燃えないゴミ」は「共通素材」の一種であった、という大胆な仮説が浮上して来るのである。大胆でしょ。大胆でしょ?ネッ!大胆でしょっ!?(なんで切れるんだよ・・・)。

 つまり僕がたまたま通りがかった、この多摩のとある地区においては「燃えないゴミ」の話題というのは共通素材として十分通用するくらい浸透していた事項であったと考えられるのである。つまり「燃えないゴミ」はその地域で流行っていたのである。
 おそらくこの地域においては「燃えないゴミ」は日常生活に十分浸透し尽くし、何があってもいつでもどこでも「燃えないゴミ」、家族揃って「燃えないゴミ」、24時間「燃えないゴミ」、寝ても醒めても「燃えないゴミ」、とにかく「燃えないゴミ」・・・などといった暮らしぶりがこの地区の住民の間で垣間見られている、きっとそうに相違無いのである。そうに決まっているのである。
 中には仏壇や神棚に「燃えないゴミ」を祭っている家庭もあるとか無いとか聞く。
 息子や娘を今度「燃えないゴミ」と結婚させることを考えている親もいるとかいないとか聞く。
 定年退職したら何がしたい?という問には「燃えないゴミ!」と答えるサラリーマン(なんじゃそりゃ)もいるとかいないとか聞く。
 今度生まれ変わったら何になりたいかという問に・・・ん?もう、いいってか?

 ともあれ、こんな具合に「燃えないゴミ」に超密着した生活を送っている地域であれば、関西のように「もうかりまっか?」「ボチボチでんな」のようなレベルで「燃えないゴミ出さなきゃっ!」「そうでっか!」などという挨拶が交わされるのは至極当然のことと言える。ともすればこの場合「燃えないゴミ出さなきゃっ!」「全く、その通り!」と相槌を打ったってむしろその方が望ましいとさえ言えるかもしれないのである。
 このような地域においては「燃えないゴミ出さなきゃ」は挨拶の定番として既に様式化し、確固たる形式が確立されているのである。
 すなわち一見無意味ともとれるが挨拶として確固たる形式を確立している「どちらへ?」「ちょっとそこまで」クラスの挨拶と同類のレベル・域にまで達しているのである。

 僕のような部外者が聞いたら奇異に聞こえる「燃えないゴミ出さなきゃっ」というセリフも以上の大胆な仮説に基づいた発言となると、むしろ当然のものと思っていただけるのでは、と自信をもってお届けする大胆な仮説がこの「燃えないゴミ流行ってる説(挨拶説)」なのである。

   *   *   *

 ・大胆な仮説その2「セリフ独立聴取説」

 先の野菜販売の老人と婦人との間には、このセリフの前後にも更に大きな一連の物語があった。
 そしてその物語のセリフの極一部分を、たまたま通りかかったモテナイ独身青年が聞くに及んだ。
 つまり、あるプロットの中の一部のセリフを独立した切り取られた形で聞いただけだった、という大胆な第2の仮説がこの「セリフ独立聴取説」なのである。
 この前提となる説は演劇界の権威K大学の小芝居刻蔵名誉教授の論文「表層的ゼティマ偽装におけるスペースヴィーナス崩壊の要因」による。この論文内で展開されている「21世紀的恋愛革命論」は近代演劇界においては、その骨幹を成す程の重要な演劇論の一つとして考えられている。

 この仮説を押し進めるに当たっては、老人と婦人の関係が結構重要な問題として挙がって来る。
 ここでは論旨を明確にする為、3つのパターンに関係を絞って見ていくことにしよう。
 3つのパターンとは「a.近隣・近所づき合い」「b.血縁(親子)」「c.夫婦もしくは愛人」である。

 まずaから見ていくことにしよう。
 このパターンにおいては僕が提示した仮説1にも若干類似性が生じて来る。
 さて前提として、今回僕が通りかかった時間帯以前に、まず老人と婦人は何らかの接触を持っていた、ということが考えられる。このことはa〜cまでの全パターンに共通する大切な事項であるから良く記憶しておいていただきたい。
 aにおいては老人と婦人が、例えば老人の出勤以前もしくは出勤直後、例えば午前中のような時間に、どちらかが外出する折り等に、どちらかの家の玄関先などにおいて一度接触を持ったとしよう。
 その際世間話などをした際に、最近のゴミ処理事情の話題などに話が及んだと考えられる。あるいは老人の最近の医療問題に関する意見等の聴取、婦人のバーゲンの際の経済事情等にも話が及んだであろう。
 そんな中、昨今のゴミ処理事情の話題などに話が及んだ際、婦人が燃えないゴミを出すのに苦労しているという話題になった。正確に言うと婦人はウッカリその話題を口走ってしまった。老人は食料を扱う仕事に従事している為、ゴミ出しの必要性は十分認知している、という自負があった。故に婦人に滔滔とゴミ出しの必要性を説きまくり出した。ゴミは燃えようが燃えまいが出すべきだと。
 婦人は老人の得意げな弁舌をマズイつかまっちゃった・・・などと多少疎ましく思い始めていたが、ちょうど運良くそこに婦人の友人が通りかかり、婦人は老人の弁舌大会からかろうじて抜けだすキッカケを得ることができた・・・と、かような前提事情が午前中においてあったと仮定しよう。
 そして夕方、買い物帰りの婦人は、行く手に再び老人を発見してしまった。
 婦人としては野菜を購入する用事も無く、また老人につかまりたくない。
 そうこう考えている内に、老人と目が合ってしまい向こうが気づいてしまったので、近づかざるを得なくなる。
 何とか適当にやりすごしてしまおう、そう婦人は決意した。
 そして、僕が遭遇した、あの瞬間に事態は至る訳なのである。
 「燃えないゴミ出さなきゃっ!」
 どうであろうか、この澱み無き論理展開。

 次にbを見ていくことにしよう。
 婦人は老人にとって義理の娘、つまり自分の息子の嫁なのであった。
 老人は日曜大工を趣味としている。そんな趣味の日曜大工において、その日少なからぬ不燃物のゴミが出た。
 老人は割と潔癖な性格なので、ゴミが家の中にあるのは気に食わない。
 そこで老人は自分の妻(婦人から見ると義理の母、つまり姑)に、不燃ゴミを早めに出しておくように命じた。
 しかし妻は、テメエが出したゴミだからテメエが自分で片づけろよ、という意味のことを言い出したから、ここにおいて舅と姑の夫婦戦争が勃発してしまった。
 そこに義理の娘、つまり先の婦人が仲裁に現れた。「ゴミは私が出しときますから(この場は治めろよコノヤロー)・・・」と。
 こんな経緯が老人の出勤前にあったわけである。
 しかしもちろん婦人はすぐゴミを出したわけでは無かった。燃えないゴミの日は「明日」だったからである。しかしああ言ってしまった手前、早く出しておかねば、また両親が一悶着起こすのは面倒だし、一応誠意を見せて置いた方が良いかもしれない、その為には今日の夜にでもコッソリ出してしまおう。そう考え続けていた。
 そして夕方、買い物帰りの婦人は、行く手に父である老人を発見した。
 もう私今日出しちゃいますからね、燃えないゴミ!、そう婦人は決意していた。
 そして、僕が遭遇した、あの瞬間に事態は至る訳なのである。
 「燃えないゴミ出さなきゃっ!」
 どうであろうか、この澱み無き論理展開。

 次にcを見ていくことにしよう。
 cは夫婦か愛人、要するに二人の間に肉体関係が介在している、という事情がからんでくる。
 今回事情が込み入って来る恐れもある為、論旨をわかりやすく展開する意味も含め、愛人関係、という設定に 限定してみよう。その中でも2つのケースを考えてみよう。
 
 まず一つめ。
 婦人、と言ってきたが彼女は独身の一人暮らしの女性でなのであった。
 老人と彼女は愛人関係にあった。老人は結婚しており、年老いた嫁もいる。言わば不倫である。
 元は彼女が経営しているスナックの客として来た老人が、彼女に一目惚れしたのがキッカケであった。
 老人は自分の稼ぎの多くを彼女につぎこんでいた。
 ところが実は彼女には、もう一人、老人よりもずっと年の若い、老人の後からできた恋人がいた。
 もちろん彼女の方は、そちらの若い男性の方を自分の本当の恋人だと思っている。
 そして若い男性には老人のことは全て話していた。
 老人から得られる金銭的な援助が実際問題、若い男性すらも助けていたからである。
 但し老人には、若い男の存在は知らされていない。老人は、彼女は自分一人を男として頼ってくれているとすっかり信じ込んでいる。
 老人は普段彼女とコンタクトを取るのに電話を使用していたが、自宅で電話を使用していると時に妻に怪しまれそうになる。
 それならばいっそう野菜を買う客として彼女を自分の露天の店に来させ、客と主人という堂々とした設定においてコンタクトを取るようにすれば、かえって怪しまれず彼女とコンタクトができると老人は考えた。
 こうして逢い引きの約束は白昼堂々、老人の店の前で行われてきたのである。
 しかしもちろん他人に会話の内容を聞かれてしまえば、そこから足がついて、元も子も無くなる可能性がある。そこで老人は自分達だけにわかる符牒を考えた。
 今日は彼女は空いている、家で待っている、OKよ、という意味で「今日ほうれん草あるかしら?」
 そして今日は危険日だから来るな、今日は都合が悪い、NO、という意味が「燃えないゴミ出さなきゃっ」だったのである。
 新しい恋人ができて以来「燃えないゴミ出さなきゃ」と言う回数が俄然増えてきた。
 そして今日も、燃えないゴミ出さなきゃ、であった。今日は若い男性が泊まり込んでいてマジでまずかった。ここは満面の笑みで何とか老人を拒絶しなければいけない。
 そして夕方、買い物帰りの彼女は、老人に断りを述べる為にいつものように老人の車へと近づいていった。
 そして、僕が遭遇した、あの瞬間に事態は至る訳なのである。
 「燃えないゴミ出さなきゃっ」
 どうであろうか、この澱み無き論理展開。
 
 2つめ。
 婦人と老人は愛人関係に有った。ここまでは1つめと同じである。
 老人は婦人の一人暮らしのアパートに通っていた。
 今日も午前中に、夜行くぞという連絡を彼女に入れていた。
 そこで本当に彼女の部屋が燃えないゴミを出していないせいで散らかっていたので、今日はゴミ出しとかないと、などというような世間話的会話がなされたばかりであった。
 彼女が老人のところで夕食用の野菜をちょうど購入しようとしていたところへ、僕が偶然通りかかった。
 つまりそうした会話ありーの流れの延長で、僕が遭遇した、あの瞬間に事態は至る訳なのである。
 「(本当に)燃えないゴミ出さなきゃっ」
 どうであろうか、この澱み無き論理展開。ふうっー。
 (そろそろいい加減面倒臭くなってきたんじゃねえか?)

   *   *   *

 ・大胆な仮説その3「純粋決意表明説」

 この説は、全く余計な想像は働かせずに、婦人の言葉をそのまま受け取ろうではないか、というある意味非常に潔い姿勢すら伺える説である。
 この仮説は考えようによっては「自然に返ろう」「原点に戻ろう」などというフレーズと流れを一つにするものであるかもしれない。根底にナチュラリズムの思想がある、と言おうと思えば言えるかもしれない。準拠したのはアメリカのNASUにも在籍していたD.Kパンプキン博士の名著「ポリスマン、ヒーイズアドッグ」に拠る。

 要するに婦人は、会う人会う人に常に「自分はこれからも元気に燃えないゴミを出し続けていく」という気概を表明して回っているオバサン、という奇特な人格設定である、という説なのである。
 であるから婦人の「燃えないゴミ出さなきゃっ」という言葉には全く裏など無く、全くその通りに現在婦人が思っている考えを素直に言葉に表した発言なのである。本当にそのまま不燃ゴミを出したかっただけのオバサンなのである。
 いつも燃えないゴミを出さなければいけない、と思っている人間が、街で出会った知り合いの野菜売りに「燃えないゴミ出さなきゃっ」と言った所で何の不思議があろう。何も不思議は無い。
 尚この説の素晴らしい人格設定の妙はアカデミー賞を受賞した「羊達の沈黙」の原作者でもお馴染みのトマスハリスをもして、うならせたとかうならせないとかと田舎のオバアチャンが言っていたのを従兄弟の源介君が聞いたらしいと、知人が言っていたのをその又知人経由で聞いた。

  *   *   *

 以上大胆な仮説を展開してきたわけであるが、婦人の「燃えないゴミ出さなきゃっ」発言が如何に日本人の深層心理学的な問題を提起し、鋭い洞察を我々に要求してきていたか、その意義の奥深さというものは図り知れないものがあるなあ、などと今僕は非常ーに痛感しているのである。

  *   *   *

 さて数日後、僕がふと外出した時に、行きつけのコンビニでアパートの住人の一人に出くわした。
 顔は良く知っているが、もちろんそんなに親しい訳では無い。
 軽く会釈をした後に、早くその場を立ち去ろうとしていた作り笑顔の僕の口から自然にこんなセリフが出てきた。
 「燃えないゴミ出さなきゃっ」。

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