探鳥会と社会教育


 最近,浜口哲一さんの「放課後博物館へようこそ」を読んでます。
 浜口さんは平塚の博物館の学芸員であると共に,日本野鳥の会神奈川支部長を始め,自然保護関係,環境教育関係の,さまざまな場所で,重要な役割を担っておられる方です。

 この「よもやま話」のNo. 3でも紹介した,「探鳥会の適正人数(30人ぐらいに抑えたい)」の提唱者でもある浜口さんが,この本の中で,社会教育の目的に関して触れている点が,ちょっと気になっています。
 それは,浜口さん御自身が,人から言われて「なるほど」と感じたと言う話。それは,……「社会教育は,よい『聞き手』を作ることだ」と言う話。
 …その意味は,「有名人」ではない普通の市民でも,上手に話を聞くことの出来る聴衆がいれば,素晴らしい語り手になれる。そういう「語り手」を発掘出来るような,よい話を聞き出す「聞き手」を育てることが,本当の意味での「社会教育」なんだと…。
 公的な社会教育施設での講演会などで,有名な人を講師に招いて話を聞くのであれば,それなりに人も集まるし「成功」したように見えるけど,こういうのは営利目的の団体だって出来る。それに,聴衆も,聞いただけで満足して終わってしまう可能性も高い。本当の意味での「社会教育」とは,違うんじゃないだろうかと言うこと。

 …確かに,「有名人」の話を聞くのは,「有り難味」はあると思うけど,もし,それと同じレベルの話を,「普通の人」から聞くことが出来る腕前が自分にもあったら,日常生活が,もっと面白くなるだろうな,と思います。

 実際,平塚市博物館では,「普通の人」が語り,「普通の人」が聞く活動が,博物館と言う場所を拠り所に,さまざまな形で展開されているわけです。もちろん,博物館の行う自然観察会にも,このノウハウが活かされているのです。

 さて,それでは,我が「明治神宮探鳥会」はどうだろうか?
 明治神宮探鳥会は,スタート当初の約10年間は,野鳥研究者である籾山徳太郎氏が案内役の中心人物でした。それには,野鳥観察はまだ一般的なものではなく,野鳥観察の普及には,学者の手を借りなければならなかったと言う,時代背景があります。
 今では,野鳥観察は一般的なものとなり,野鳥のことを人に語るのに十分な知識と観察経験を持ったアマチュアは,たくさん育っています。明治神宮探鳥会を始め,年間200本前後の観察イベントを組んでいる日本野鳥の会東京支部で観察案内をしている人たちの顔ぶれを見ても,いわゆる「学者」系の人物は,皆無に等しい状況です
 ある意味,社会教育としての,1つの成功を見たわけです。

 しかし一方では,探鳥会が排他的かつマニアックになってしまう傾向があったり,指導する側の知識,見識のバラツキが激しかったり,「聞き手」の側が上手く育たず,「聞き手」から「語り手」の側に居場所を変えて「語り手」の裾野を広げてくれる人が激減したり,さまざまな問題も抱えています。

 また,これも時代の流れなんでしょうけど,「ローカルヒーロー」的な,自然解説者の「有名人」が頭角をあらわし,そこから,「学者」とは別のスタンスの,「自然解説のプロ」が誕生しています。マーケットの広がりが,産むべくして「プロ」を産み出したのだと思います。
 「自然解説のプロ」は,社会教育的には,ややターゲットの違う人物となります。つまり,プロは,「有名人の話を聞く」タイプのイベントのための要員となってしまうわけです。

 現在の明治神宮探鳥会のスタッフは,もちろん全員,アマチュアの語り手です。しかし,アマチュアと言えども侮れません。足繁くフィールドに通い,自分の「楽しみ」として身につけた知識や観察経験は,プロの手馴れた言葉とは別の,アマチュアならではの魅力があります。プロとアマ,それぞれに特性の違う美点があるのです。話の上手さや,「この人の話を聞いた」と言う経験に「有り難味」があるのが,プロの美点。一方,アマチュアは,聞き手との距離の短さや,対人関係のきめの細かさに加え,自分の経験を自分の言葉で心置きなく語れる強さがあります。

 しかし,この特性の違いを分かってもらえないと,がっかりしてしまう「聞き手」も出てきます。
 プロの話は面白い。面白いけど通り一遍のことも多い。そのフィールドに足繁く通って,フィールドに精通している人から見れば,どうしても物足りなさを感じさせる。また,自然を観察に来たのか,「プロの話を聞く」ことを目的に来たのか,分からなくなってしまうこともあります。
 特にフィールドが固定している観察会の場合,アマチュアのほうがプロの上を行く観察案内が可能な場合も多いのです。しかし,聞き手が「アマチュアの話はプロより劣る」,と言う先入観を持っていたとしたら,素晴らしい観察案内も,楽しさ半減です。

 いま,明治神宮探鳥会の場合,かなり中途半端な事態になっています。
 基本的にはアマチュアのスタッフ。しかし,それぞれにかなりのキャリアを積んだつわもの揃い。「アマチュア」のやることとしては,完成度の高いほうだと思います。しかし,「聞き手」と「語り手」の距離感が,なんとなく広がっています。その理由は,完成度の問題なのか,単にいまどきの「聞き手」(=参加者)が距離をおきたがっているのか,はっきり分かりませんが,「聞き手」である参加者の方々に,親しくしてもらえないのは,アマチュアの立場としては,かなり寂しいものがあります。もちろん,完成度が上がれば,より「プロ」に近づいてしまって,参加者から見た案内役が,より遠い存在に見えてしまう,と言う心理効果もあると思います。また,この距離感が理由になるのかどうか,はっきりしませんが,案内する側(=語り手)の後継者が育たなくなっているのも,問題となっています。あまり言及はしたくないのですが,探鳥会が年配者の「生き甲斐探し」の受け皿になっている点も否めません。場合によっては,完全に「上げ膳据え膳」的な観察案内を要求されますし,「これを自分の生き甲斐にしようかどうか?」と迷いながら参加しているような人もいて,なんとなく逃げ腰な雰囲気も見えてしまいます。

 質の高い自然観察案内を目指すと,参加者が遠くなる……ちょっと頭の痛いジレンマに陥っているのです。

 また,探鳥会の「社会教育機能」と言う観点も,現状ではそれほど一般的ではないと思います。
 私は,探鳥会や自然観察会は,全年齢層向けの「環境教育」機能を含んだ,「社会教育」的な面と,エンターテイメントとしての楽しさを並列・共存させた,いわゆる「エデュテイメント」と言う形を頭に描きながら,観察案内をしています(このHPもそのコンセプトに基づいて作っています)。
 今後,楽しむだけの自然観察は,質的には観光旅行と変わらないものとして,存続するでしょう。しかし,ほんとうの意味での「自然観察会」は,「環境教育」ベースの活動に帰着すると思います……旅行業者にも,「エコツーリズム」として,このコンセプトを取り入れたツアーが出来始めています……。明治神宮探鳥会はもちろん,後者を目指します。今はこのコンセプトに違和感を感じる参加者も少なくありませんが,時代の流れから見て,そう遠くない将来,これが主流になると私は考えています。そう言う時代が来れば,「アマチュアが語り,それをアマチュアが聞き,互いに学んでゆく」と言う,社会教育機能も,もう少し役に立つことでしょう。

 明治神宮探鳥会と言う「器」の出来は,かなりいい線まで持ってきた。次は,そこに入れる料理を作る人であり,きれいに盛り付ける人であり,それを楽しみながら味わえる人であると思います。


(2000年7月29日記)

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