探鳥会指導者と鳥学者,自然科学者


 最初に,歴史的な話をしましょう。
 明治神宮探鳥会の歴史は,日本のバードウォッチングの歴史と共にありました。
 詳細は「明治神宮探鳥会物語」としてまとめています。読んでない方はご一読ください。
 もともと野の鳥を観察すると言う趣味が無かった国に,野鳥を野にあるがままの姿で観察して,自然に対する造詣を深め,ひいては野鳥の住む環境を守る……それはまぎれもなく,我々の住環境を維持し,野鳥を始めとする自然の生き物たちとの共生を目指すことになるのですが……と言うことを提唱し,浸透させるために,先人の行なってきたことは,並大抵の努力ではなかったことと思います。野鳥の会が発足してから60数年たった今でも,野鳥の密猟は後を絶たず,野鳥や自然との共生を考えた開発事業なども,決して多いとは言えませんが……。

 野鳥の会が発足した頃,鳥を楽しむと言えば,食べたり飼育したりすることが主流でした。また,鳥を研究する「鳥学」も,標本収集による分類学が主体でした。実際,生物研究における「生態学」の研究が日の目を見たのは,つい最近のことです。また,当時の鳥学者に貴族が多かったことからも,鳥学が,今の「実学」的な自然科学と違って,「純学問」的な匂いのするものだったことが想像されます。
 そのような時代に,野鳥の野外識別を主体とした,野外での観察を,知的好奇心と「遊び心」で楽しんでしまうと言う探鳥会のコンセプトは,実に斬新だったわけです。そのコンセプトは現在でも通用しています。今風に言えば,「エコツアー」や「環境教育」と言ってもいいものだと思います。

 しかし問題もありました。
 発足当初の野鳥の会は,しばらくの間,会員数3桁の時代が続くほど,マイナーな組織でした。言うなれば,知的好奇心で集まった,趣味の集団です。野鳥の会が飛躍的に組織を拡大させたのは,環境問題が盛んに取り上げられるような時代になってからのことです。
 そして,今も昔もけっこう切実なのは,指導者の工面。
 この点では,明治神宮探鳥会は幸運でした。
 なにしろ,20年以上もの間,都心で唯一の「月例」探鳥会だったので,その筋の関係者には,一度は顔を出してもらえるような環境だったのです。
 さらに,最初の約10年ほどの間,鳥の研究者である籾山徳太郎氏を指導者に迎えていたこと。これが,当初の明治神宮探鳥会のコンセプトを決定付けたとも言えます。
 また,当時の「日本野鳥の会東京支部」では,月に1回,当時は渋谷区南平台にあった山階鳥類研究所を見学して,研究者からお話を聞くと言う月例会がありました。今にして思うと,なんて贅沢でアカデミックなんでしょう!
 この月例会の実現には,山階鳥類研究所の研究者であった,高島春雄氏の御尽力がありました。また,日本の野鳥の野外図鑑制作の第一人者であり,野鳥の野外識別の技術を完成させた人の1人でもある高野伸二氏も,山階鳥類研究所に勤めていた時期がありました。高野氏は,明治神宮探鳥会での観察指導経験もあり,昭和30〜50年代には,日本野鳥の会東京支部の世話役としても素晴らしい実績を残しています。
 そして,探鳥会には,文化人の顔も,しばしば参加者の中に見られました。これに関しては,野鳥の会初代会長の中西悟堂の戦略的なものもあったように思います。
 いずれにしても,昭和30年代頃までの明治神宮探鳥会は,今にして思えば,学問や文化を市民とつなぐ,素晴らしい集まりだったようです。私が生まれる前のことなので,ちょっと憧れもありますが,私が物心ついた頃の明治神宮探鳥会にも,ちょっとだけ,そんな匂いがしていました……。

 その後,いろいろな場所で探鳥会が行われるようになり,野鳥識別力をつけた会員が新たな指導者となり,探鳥会活動が広がっていったわけです。ただ,ひとつ残念なのは,野鳥の「野外識別」だけが一人歩きし,学術的なバックグラウンドや,環境のこと,野鳥と人との共生のこと,文化的なことなど,当初の探鳥会にあった良い部分が,かなり置き去りにされているような気がしてなりません。まぁ,それもひとつの「大衆化」の結果なのかも知れませんが……。

 今では,第一線の研究者が手弁当で市民に観察指導してくれるなんて,ほとんどないことだと思います。裏を返せば,50年前には,鳥のことを人に教えることの出来る人は,研究者ぐらいしか居なかったわけなのですが…。それに,現在の研究者は忙しいですし,比較的狭い専門分野を深く掘り下げて仕事をしますから,自分の研究テーマと,市民に教えるべき話題が一致する確率はかなり低い。ですから,自然観察指導においては,博物館の学芸員などの,より守備範囲の広い「専門家」が主流となるわけです。でも,研究者たちも,自分の仕事をより多くの人に理解して支持してもらうためにも,もっと市民向けの普及活動に関わるべきではないかと思いますけどね。だって,50年前の鳥学の研究者だって,野鳥の野外識別に関しては,事実上「専門外」だった人が多かったのですから。

 さて,明治神宮探鳥会に話を戻しましょう。今だから話せるお話です。
 私の父は,1960〜70年代に,明治神宮探鳥会の観察案内をしていました。父は工学系の研究をしていましたから,野鳥研究者ではない探鳥会指導者としては,比較的古いほうです。ですから,野鳥観察は完全な趣味。野鳥よりも野草の観察のほうが得意でしたから,いきおい,探鳥会でも観察の対象が植物にも広がりを持ってきました。父が自然観察好きなのは,まったくの趣味でしたが,実は仕事上でも,公害対策,省エネルギーなど,環境関連の研究をしていました。そうした専門家としての思想が,探鳥会に還元されていたのは事実ですが,探鳥会には平日の肩書きを持ち込まない主義で通していたので,探鳥会では,誰もその実像を知ることは無かったようです。
 Community of Interest としての探鳥会の位置付けをきちんと守り,自分の伝えたいことをそっと伝えてゆく奥ゆかしさとパワー。すごいと思います。

 父は1981年に他界し,その後の明治神宮探鳥会は,しばらく「大衆化」に傾きました。実際,ちょっとしたブームで,探鳥会参加者がやたらと増えていて,それどころではなくなっていましたし,私も学生だったので,当時のチーフ役の「商売臭い」探鳥会運営方針を中心に,年間1500人と言う,膨大な参加者の相手をするのが精一杯と言う状況が続いていました。
 1990年代に入り,ブームが一段落してくると,今度は年配者ばかりが目立つようになり,フィールドマナーはおろか,一般的な「エチケット」のレベルまで乱れてくると言う,「大衆化」のツケが回ってきたような状態になりました。参加者の希望も,「見て名前を覚えること」が中心となり,学問からも環境教育からも自然保護からも,目に見えて遠ざかっていました。しかし,幸か不幸か,私は獣医師免許を持った,動物の研究者になっていました。私が自然観察指導を担当するなら,研究者としての自分に恥ずかしくないことをやりたい。もちろん,他の担当者も大切にしたいから,探鳥会に平日の肩書きを持ち込まない主義は通したい。さらに幸いなことに,私のほかにも生物系を専門にしているスタッフがいたり,「識別」以上の自然解説が出来るツワモノが揃っていたので,探鳥会の内容の見直しは,どんどん進みました。
 それが現在の明治神宮探鳥会です。
 昔の探鳥会の良い部分はしっかり継承し,提供する情報は最新でアカデミック。さらに,近年重視されている環境教育のコンセプトも取り込み,体験型の観察を取り入れ,よりアクティヴに。また,より幅広い年齢層に対応し,小さな子供から楽しめる観察内容。マニアしか寄り付かないような探鳥会から脱却し,誰でも気軽に「自然体験」が出来ることを主眼に置いた,間口の広い,それでいて,きちんと伝えるべきことは伝える探鳥会を目指し,毎月,いろいろと内容に手を入れながら,明治神宮探鳥会は進化を続けています。

 新たなる,学問,文化の接点として,
 知的好奇心を刺激するCommunity of Interest として,
 身近な問題として環境を語り,人と生き物の共生を語る場として,
 次代を担う子供達や若い人達に,さまざまな形の「自然体験」を提供する場として,
 そして,これらの実現を目指す仲間の集まる場所として,

新たな探鳥会作りが,もう,始まっています。

 もう,「探鳥会はどれでも同じでしょ」なんて,絶対に言わせませんからね。


(2000年2月23日記)

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