明治神宮探鳥会物語

 1.「探鳥会」の誕生
 2.明治神宮と探鳥会
 3.初期の明治神宮探鳥会
 4.「愛鳥」から「自然保護」へ
 5.「探鳥会」から「バードウォッチング」へ
 6.中高年のアウトドアブーム,そして……

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1.「探鳥会」の誕生


 そもそも「探鳥会」と言う言葉は,中西悟堂の造語である。
 中西悟堂は,言うまでもなく,「日本野鳥の会」の創始者である。
 日本野鳥の会が正式に発足したのが1934年。当時の「野鳥愛好家」の楽しみと言えば,野鳥を捕獲,飼育して啼かせたり姿を楽しんだり,あるいは,狩猟して食したり,と言うものが主流だった。また,「鳥学」という学問は既に成り立っていたが,学問として鳥の研究をする場合も,捕獲,標本作製から始まるのが普通だった。そこに,「野の鳥をありのままに,生きざまを見て,姿や声を愛でる」と言う野外観察を提唱したのが,中西であった。当時の鳥学は,分類学主体で,野鳥種の「同定」は,標本に頼っており,野外で野鳥種を見分けると言う技術は未熟で,野外での野鳥の「同定」は困難とされていた。この時代に,野外で野鳥を見分ける技術に「識別」と言う言葉を使い始めている。恐らくは,野鳥は野外観察での「同定」は出来ないと言う意見に対する回避策でもあったと思われるが,「識別」と言う言葉は,今でも生きている。
 さて,中西は僧籍を持ち,文人墨客との交流も深かった(今で言うところの「文化人」のような存在だったと思われる)。狩猟による殺生を嫌い,野外での野鳥観察を提唱した中西は,いわゆる文化人達を集め,積極的に野鳥観察を紹介した。同行した文化人は,中西の観察力,識別力に舌を巻いたという。こうして支持者を集め,日本野鳥の会は,その歴史を歩み始めた。
 その当時,作られた用語が,「探鳥会」である。「探」と言う文字からは,「探訪」,「探勝」などの文化的匂いを漂わせ,それが,野外での野鳥観察を,当時の野鳥愛好家の趣味とも,鳥学とも違った,ひとつの自然科学と文化の融合を試みた言葉のようにも見える。
 かつては,野鳥の会の歴史に名を残すような「名探鳥会」がいくつか開催されている。そのような探鳥会が開催された場所は,その後,野鳥観察者のメッカのような,有名な探鳥地として名前を残している。……富士山麓須走,青梅の御岳山,軽井沢,高尾山など……。そして,日本が戦争の時代に突き進む中で,明治神宮でも散発的に探鳥会が行われていたと言う。
(文中敬称略)

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2.明治神宮と探鳥会

 明治神宮は,文字通り,明治天皇と昭憲皇太后を祀る神社である。
 明治天皇崩御の後,建立計画が持ち上がり,南豊島御料地をおもに利用し,全国から10万余の献木を受け,1915年に着工,1920年に創建している。今でこそ,鬱蒼と深い森になっているが,ここは紛れもなく人工の森だ。そこには当時の林学者の英知を集めた樹木配置が行われている。例えば……まず,境内の中心部にはアカマツなどの育ちやすい木を植えて森を作り,生育の難しい暖地性の照陽樹などを,その隙間に植え,最初に作った森に守られるようにして育て,長い時間を経たのち,樹木が照陽樹に代替わりし,100年後,200年後に「極相林」として完成するように設計されている。人の手を極力加えず,森自体の力で,「永遠の森」を作り上げるという,見事な設計だ。この当時,境内を杉林にしようと主張していた当時の首相,大隈重信の意見を,林学者達が跳ね返していなかったら,今の明治神宮の豊かな森は無かった。

 野鳥の会の黎明期に明治神宮の宮司であった鷹司信輔は,貴族院議員でもあり,野鳥にも造詣が深く,野鳥関係の著作も残している。中西悟堂と鷹司に交流があったのは言うまでもない。
 明治神宮には,探鳥会を行いやすい条件が揃っていたのだ。
 1934年の「日本野鳥の会」発足時の発起人として,鷹司も名前を連ねている。
 日本野鳥の会と明治神宮のつながりは,既にこの時期に始まっていたのだ。

 戦争が終わり,1947年。日本野鳥の会は,本部−支部体制へと移行した。それまでの会の組織は,「日本」と名乗りながらも,東京近郊中心の小さなものだった。この体制移行により,日本野鳥の会の,愛鳥思想を普及啓蒙する活動の全国展開が,この年,本格的に始まったと言える。かくして,本部のお膝元の東京にも,支部が作られる。代表は中西。
 支部発足と同時に,支部の定例行事として始められたのが,明治神宮探鳥会である。開催日は当時も今も,毎月第三日曜日。1997年には50周年を迎え,600回の開催を数えた。これほどまでにロングランの探鳥会になるとは,当時,誰が想像していただろうか。担当者の努力もさることながら,会場である明治神宮の自然環境が,何十年も守られてきたことも,非常に重要な点である。何十年もの間,良好な自然環境を,ずっと維持してゆく努力は計り知れない。この自然環境の利用者である明治神宮探鳥会は,ひたすら明治神宮に感謝するばかりである。
(文中敬称略)

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3・初期の明治神宮探鳥会


 日本野鳥の会東京支部の発足した1947年4月,支部の唯一の定例探鳥会として,明治神宮探鳥会が始められた。残念ながら,この当時の探鳥会の記録は,ほとんど残っていない。東京支部が本格的に支部報を発刊したのが1954年のこと。それまでの探鳥会の記録については,ハッキリとしたものが見当たらなかった。
 この時代の探鳥会を作っていた人物として,籾山徳太郎,小泉吉之助の名前を紹介しておこう。
 籾山は日本橋の商家の生まれ。戦前,貿易で一財をなした時代に野鳥標本蒐集を手掛け,自ら日本各地の野鳥を捕獲し,標本を集め,鳥類学者としても名前を上げていった。戦後,商売の失敗により,経済的にはかなり苦しんだと伝えられるが,その時代に,明治神宮探鳥会で,一般の人に鳥のことを教えていたことになる。
 籾山の集めた標本は8000点にもおよび,当時,日本で2番目に大きなコレクションとなっていた。この標本はその後,山階鳥類研究所に寄贈されている。山階のコレクションは約6万5千点だから,その1割以上を「籾山コレクション」が占めていることになる。
 小泉は青山の新進気鋭の理髪店の店主。当時の典型的な「野鳥趣味」であった,鳥打ちや飼育などに長けていた。戦災で店を失った後,林業試験場内の理髪店で仕事を再開。この時期に,野鳥の会に感化され,野鳥観察へと転換。明治神宮探鳥会の常連となり,参加費の取りまとめや事務手続きを引き受けるようになる。
 こうして,講師−籾山徳太郎,世話役−小泉吉之助と言う,1950年代前半の明治神宮探鳥会のスタイルが出来上がった。
 1954年当時の東京支部の会員数は170人ほど。その後数年間で倍増するが,1999年現在,日本野鳥の会本部の会員が約5万5千人,東京支部会員が6千2百人であることを考えると,実にささやかな会であった。しかし,1957年の明治神宮探鳥会の年間延べ参加人数は600人を越えており,これは1997年の実績とほぼ同じである。会員は少なくとも,その熱意のほどをうかがわせる数字である。
 また,参加者には,いわゆる「文化人」も多く含まれ,1955年の記録には,柳田国男の名前もある。この辺りが,中西悟堂の文化的戦略をうかがわせる。

 当時の観察記録を見ると,トビ,サンショウクイ,サンコウチョウなど,現在では考えられないような鳥の名前がある。今よりも周囲の環境条件が良かったことも確かだが,当時の明治神宮は,まだ,十分に森が成長しておらず,疎林や開けた環境を好む野鳥が訪れることも多かったようだ。

 1956年には,100回記念探鳥会が開催されている。御苑内で,鷹司信輔宮司を招いてお話を聞く等の記念イベントが開催された。

 1950年代後半には,籾山,小泉が相次いで勇退。その後間もなく他界している。
 明治神宮探鳥会は,新たな指導者を求め,模索の時代に入る。
(文中敬称略)

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4.「愛鳥」から「自然保護」へ

 籾山徳太郎,小泉吉之助の相次ぐ他界により,1950年代後半,明治神宮探鳥会は固定した指導者が不在となる。この当時,東京支部では,月例の探鳥会は明治神宮だけ。他に,冬季のみ月例で開催された多磨霊園探鳥会,「渡り」のシーズンのみ,月1,2回開催された新浜探鳥会など,現在も月例探鳥会として続いている探鳥会が,既に始まっていた。さらに,軽井沢,富士山麓を始めとする,遠出の探鳥会も,不定期に開催されていた。しかし,誰もが気軽に,日曜日を半日だけ使って野鳥に出会うことの出来る明治神宮探鳥会が,存在価値を失ったわけではなかった。
 この時期,東京支部では,月1回ほどのペースで,山階鳥類研究所を訪問,見学し,研究者からお話を聞くという「例会」があった。これが現在の「室内例会」の原型とも言える。当時の東京支部の活動が,非常に文化的で,アカデミックであったことは,想像がつくと思う。

 この時期の明治神宮探鳥会には,その後の,野鳥の会やバードウォッチングの世界で活躍する人達が,参加者名簿に名を連ねている。塚本洋三,岡田泰明,蓮尾嘉彪といった,その後の野鳥の会や自然保護活動の中心的役割を担う人物の名前がある。野鳥図鑑著者の第一人者である高野伸二も,しばしば明治神宮探鳥会に参加している。
 また,一般向けにも広く門戸を開き,1960年5月には,愛鳥週間とタイアップした探鳥会を開催し,100名を越える参加者があり,新聞にも写真入りで報道された。

 しかし,籾山という「顔」を失った明治神宮探鳥会は,その後,東京支部の幹事が交代で案内役を担当し,綱渡り的な運営を余儀なくされていた。ある時には集合時刻を過ぎても,ついに担当者が現れなかったということもあった。また,明治神宮はもともと,それほど多くの種類の野鳥が見られる場所ではなかった。過去の記録を見ても,1回の探鳥会で見られる野鳥種は,最高35種,最低8種。平均すれば,15〜20種程度である。他の探鳥会に比べれば,かなり見劣りのする数字だ。また,高度経済成長期に入り,明治神宮周辺の環境も都市化が進み,好景気の波に呑まれ,人々が「身近な自然」を顧みることも少なくなり,探鳥会の参加者数も減少してきた。
 担当不在,鳥も少ない,人が集まらない,と言う現実は,廃止論につながる。
 しかし,1964年より,小泉睦男が担当を引き受けることにより,明治神宮探鳥会は存続することになった。小泉睦男は,父・吉之助と共に,1950年頃から明治神宮探鳥会に通っていた。1964年当時,最も参加回数の多い「常連」の1人だった。ここに初めて,「鳥」の専門家ではない案内役が,明治神宮探鳥会に誕生した。

 この当時までに,高野らによって,野鳥の野外識別法の体系がほぼ整い,さらに,野外で使える野鳥図鑑が出始めていた。専門家でなくとも,野鳥を識別し,人々に紹介することが出来る環境が,出来上がってきたのだ。その後間もなく,引頭百合太郎を幹事に迎え,明治神宮探鳥会は,小泉−引頭体制で,その後の10数年間を運営することになる。
 小泉−引頭の指導体制で特筆すべきだったのは,もともと野草愛好家でもあった小泉が,探鳥会で植物の解説も行ったことである。当時は俳句や短歌を嗜む人達の参加も多く,季語に使われる野鳥や草花の解説は,快く受け入れられたばかりでなく,明治神宮の自然環境を紹介する上で,非常に効果的なことであった。
 また,1960年代後半になると,公害問題が社会問題としてクローズアップされ,その被害者とも言える野鳥を観察することは,単なる「愛鳥趣味」の領域だけでなく,「自然保護」と言う観点をも,もたらすようになった。野鳥や植物を継続的に観察していることで,自然環境の破壊にいち早く気づくことが出来る。野鳥や自然を愛することが,「自然保護」無しには語れない時代にさしかかっていた。

 1970年,日本野鳥の会本部は,財団法人化し,企業や政治家の言い分には引っぱられない,財政的にも独立した,自然保護団体としての組織の第一歩を踏み出した。折しも第一次オイルショックの時代である。
 本部の体制の変革に伴い,支部,そして探鳥会にも,新たな流れが始まろうとしていた。
(文中敬称略)

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5.「探鳥会」から「バードウォッチング」へ

 小泉睦男,引頭百合太郎の2名は,1970年代末まで明治神宮探鳥会の担当を続けていたが,1970年代半ば頃より,新たな若手の案内役を迎えることになった。藤本和典,中村文夫,福島功,安西英明,と言ったメンバーである。小泉−引頭体制初期には,参加者が50名も来れば「非常に大人数」と言われていたのが,この時期には,探鳥会の参加者数も増えていて,参加人数が50名を切ることが無くなるほどの盛況ぶり。案内役の増員はどうしても必要だった。
 1970年代後半,オイルショックやそれに続くによる不景気が引き金となり,自然を見直す動きが盛んになった。また,ファッションやレジャーとしてのアウトドアブームが始まり,若い世代が探鳥会に参加するようになった。1980年前後から「探鳥会」に代わって「バードウオッチング」という用語が普及し始め,野外で野鳥を観察することが,若者の間で流行する兆しが現れてきた。1950年代に探鳥会に参加していた若者の,アカデミックな雰囲気とは違い,華やかな「おしゃれ」のアイテムとして,「バードウォッチング」が受け入れられ始めていたのだ。第2次オイルショック後,そのブームはピークに達する。
 1985年前後の探鳥会は,お祭り騒ぎのようなものだった。明治神宮探鳥会でも,1回の開催で250名の参加者を受け入れたこともあった。5月には,「バードウイーク探鳥会」「早朝探鳥会」「定例探鳥会」と,同じフィールドで3回の探鳥会を開催し,その参加延べ人数が400人を越えるという状況だった。ここまで規模が拡大すると,探鳥会としての目的も十分に果たせず,やっとこ鳥や草花の名前を教えるのが精一杯,と言う状態が続いていた。
 1985年に,観察案内を補助する目的で,オリジナルのパンフレットが制作された。月刊で,毎月の観察内容に沿った話題をいくつかピックアップして掲載した。しかし,ただでさえ参加人数が多くて負担が大きい状態で,月刊のパンフレットを制作するのは無理があった。このパンフレットは1987年に休止となっている。
 マスコミからの取材も多く,探鳥会は,まだマスコミにとっても目新しいものであったことが想像される。新聞に探鳥会の開催案内が転載されると,参加人数が30〜50人も増加した。

 しかし,ブームは長続きせず,1980年代後半には,探鳥会の参加人数は,ひたすら下降線をたどっていた。若い世代は次第に去り,それに代わって,年配者がこぞって探鳥会を訪れ,探鳥会の雰囲気は様変わりしていった。

 1970年代後半から1980年代にかけて,多くの若手の案内役が去就した。この時代に20代だった案内役の中で,1999年現在も残っているのが,糸嶺篤人,高橋嘉明,小泉伸夫,山崎光男,金森光伸の5名。最も多い時期には2桁を数えた案内役の人数も,2001年現在,上記の5名に加え,樋口真道,服部泉の2名を加えた,合計7名。しかし,かつての「若手」の案内役が,明治神宮探鳥会を去った後も,地域の自然観察会や,さまざまな形で自然観察,自然保護などに関わっていることが多いのが,せめてもの救いである。
(文中敬称略)

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6.中高年のアウトドアブーム,そして……

 1990年代,探鳥会から若者と子供が消えた。
 中高年のアウトドアブームは,「日本百名山」のヒットと共に,一大ブームとなって,山々を中高年で埋め尽くした。そして,「お気軽アウトドア」として,探鳥会にも中高年の波が訪れた。
 若い世代の流行と違い,中高年の流行は息が長い。
 また,これは若い世代を遠ざける一因にもなったようだ。

 かくして,探鳥会の参加者の平均年齢は上昇を続け,1990年代半ばには,平均60歳に近づいていた。各地の探鳥会が,若い世代はおろか,30代ぐらいの世代にとっても,同年代の話し相手のいない,居心地の悪い場所となっていった。明治神宮探鳥会でも,集合時刻になってみたら,担当者がいちばん若かったと言う,笑って済まされないような状況になったこともある。

 探鳥会に参加する中高年には,1つの特徴がある。
 それは,アウトドアのキャリアがきわめて浅いこと。
 これは,中高年の登山ブームにも共通している。
 「初心者」の入口として,探鳥会が利用されているということは,探鳥会の1つの目的を果たしていると言える。しかし,かつての時代のように,探鳥会の参加者の中から,観察の腕を磨いた有志が育ち,次世代の案内役になるという伝統は,すっかり途切れてしまった。実際,ここ10年ほどの「中高年のアウトドアブーム」の中で,明治神宮の案内役を引き受けてくれた中高年世代の人は,皆無である。積極的な参加者も,何年も探鳥会に参加するリピーターも,ほとんどいなくなった。
 1990年代の探鳥会の参加者の特徴を一言で言えば,カルチャースクールのような感覚で探鳥会に参加している,と言えるかも知れない。
 探鳥会の利用のされ方も,様変わりしていたのだ。

 そして,自然観察案内や自然保護の普及啓蒙活動の担い手は,次第に足りなくなっている。

 また,1990年代に入って,案内役の4割が,担当を離れている。
 体制の立て直しは急務のこととなった。

 「日本野鳥の会東京支部」と言う枠組みの中で,探鳥会はどこまで変革できるか?
 1990年代後半は,新たな探鳥会作りの時代となった。

 1991年より,パンフレットを季刊で復活。1993年より編集作業を積極的に電子化し,労力を軽減する一方,内容的にも,「解説の補助」から,ミニコミ誌的な情報提供へと変化させ,内容の充実を図った。さらに,1997年からフルカラーに。電子メールで原稿をやり取りし,DTPで編集,印刷と言う効率的な体制が整った。
 観察内容も変わった。
 各月ごとに観察テーマを設定。何回参加しても,決して「マンネリ」のを感じさせないプログラム。さらに,季節に合わせ,「鳥」だけにこだわらない発想で,さまざまな観察対象をテーマに取り上げた。
 また,地球規模で「環境」を考える時代。環境教育的なプログラムを導入し,簡単な環境調査なども,探鳥会の中で,任意参加で行った。
 さらに,子供でも楽しめる「遊び」を観察の中に組み込み,小さい子供を連れて参加しても,親子で楽しめるように工夫した。

 この結果,他の探鳥会が参加者数を減らす,鳥の少ない季節にも,安定した参加者数を確保するようになった。毎回,小学生以下の子供達が,参加者の1〜3割を占めるようになった。探鳥会で行った調査記録をまとめ,学術論文が出来た。
 こうした,さまざまな成果が,これからの探鳥会の姿を創ってゆくことと期待される。

 スタート当時,もっとも先進的な「自然観察趣味」であった明治神宮探鳥会。今でも,そしてこれからも,日本で最も古い定例探鳥会という伝統と,時代に即した先進性を持った自然観察イベントとして,良質のエデュテイメントを提供し続けてゆくことを願って止まない。
(文中敬称略)

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