おうせんど廃寺


(所在地)

 京都市伏見区深草鞍ヶ谷町 谷口町


(沿革)

大岩山の西方,七瀬川北岸の丘陵地に位置する。「行基年譜」の天平三年(731)行基64歳条に「法禅院。檜尾。九月二日に起こす。

山城国紀伊郡深草郷に在り。」と記載されており。,,寺跡周辺に「オウセンドウ」・「日野ヶ池」という地名が残っていたことから,

木村氏はオウセンドウ廃寺を行基によって建てられた49院の一つであると比定されていた。

また,この「法禅院」は「檜尾」とも記載されていることから,嘉祥三年(850年)に仁明天皇深草陵の近隣七個寺として正史にあらわれる

檜尾寺とも考えられていた。

出土瓦から創建は白鳳時代まで遡るようである。遺跡付近は発見当時からすでに土採り場となっていたが,建物土壇や礎石が

残存していたようである。しかし,現在これらの遺構は消滅し,伽藍規模は全く想像できない状況になっている。


(調査)

発掘調査はされていない。


(収集経過)

木村氏は昭和四年(1929年)に初めて現地を訪れたようで,その後たびたび調査を行っている。注記のもっとも新しいものは

昭和32年である。

木村氏より京都市へ寄贈された資料の中にこの寺院跡出土の礎石5個があるが,この礎石は寺院遺構が昭和30年年代に土採りに

よって破壊された時に収集されたものである。

木村氏の現場での観察によればいくつかの土壇跡や石積跡などがあり,氏はそれぞれ

塔跡・金堂跡・講堂跡(礎石が発見された遺構)・食堂の可能性の堂宇跡と推定し,寺の伽藍配置を法起寺式配置と推察されている。


(資料)

収集資料は,総数105点(面戸瓦1点 ・不明瓦1点・連弁叩き平瓦1点を含む)にのぼり,うち鐙瓦は蓮華文・重圏文・小型重圏文・

圏線文の17種60点,字瓦は重弧紋・唐草文・重郭文・連珠文の19種42点を数える。

創建瓦は白鳳時代のもので,^平安中期までの資料がある。このうち奈良時代の瓦の半分以上を占める。

瓦以外の遺物として緑釉壷の底部1点・皿1点・須恵器蓋1点・鉢1点・小瓶子17点・甕18点,土師器2点が収集されている。

なお須恵器壷1点が,塔跡付近から収集されている。      

                            財団法人京都市埋蔵文化研究所 「木村捷三郎収集瓦図録」より









筆者の考察

現場には子供の頃から月に何回かは畑仕事で通っていた。

明らかに違う所は木村氏の言う伽藍配置は「法起寺式配置」でなくて,「法隆寺式配置」である。道路から見ると西側,即ち左側に

心礎が置かれていた。心礎の柱穴直径が約74-76センチで40を掛け29.6メ−トルから30.4メ−トルで大体30メ−トル有ったと考えられる

五重塔は総高で36-37メ−トルあったと推定される。(新版仏教考古学講座 第3巻 塔・塔婆」石田茂作監修、雄山閣、1984年より)

昭和30年代頃に4-5名の人達が東側で発掘測量されていた。そこはまだ一段高く多分そこから礎石5個が発掘されたものと考える。

伽藍配置からするならばその箇所は金堂に当たる所だと思うのだが。

現場は横に細長い場所である。だから周囲の回廊があったとは考えられない。周辺は高い竹薮に覆われていたが,

昔は森林だったかもしれない。だから北側・東側・西側は山林で絶壁に近いようで,南側だけが塀で門が有った寺院だったと考える。

後方に一段高い箇所があり其処に講堂があったと思われる。その隣に食堂があったのかも知れないが,

僧侶達が住居していた場所は必ずあるはずだから,東側に存在していたか,門近くにあったと考える。

心礎のあった場所と講堂の一部の場所より東側は他の人の持ち主の土地だから詳細は判らない。

西側の南端から北に向かい緩やかな山道で山に登れた。山の登った箇所にかなり大きい深い穴が在った。

子供の頃転がり落ち助け出された記憶がある。昔の井戸だった可能性も考えられる。

今から考えるとその隣の箇所は山を少し削り取って山中にしては珍しい平坦な土地が8-10m×5-7mは有った考える。

当時は瓦などの発掘物を気にしていなかったから,見た記憶がない。建物が建っていた可能性は有る。

伽藍のあった畑地は大きい石が沢山埋まった場所だった記憶がある。

山からの土は採掘された粘土は伏見人形の材料に,使われたと記録されており,

そして壁土などの建築物用材としても利用されていったようだった。

寺院は私寺で定額寺でなかったのか平安中期頃に廃寺になっているので記録として殆ど見ることが少ない。

檜尾寺の西側に大寺である嘉祥寺・貞観寺か゛,東方面に又観修寺・醍醐寺・観心寺が建立されることによって

次第に衰微していったとものと考えられる。

稲荷神社を建てた秦氏達の寺院で,白鳳時代に建立され寺を行基が法禅院として利用し檜尾寺として続いたと考える。

この深草には深草寺と法禅院しが平安時代前の寺院として,2寺院しか見ない。

深草寺は広隆寺の末寺として記録に残っている。広隆寺同様秦氏が関係している。

明らかに五重塔のあったとされる寺院は深草では法禅院(檜尾寺)のみである。

仁明天皇陵と檜尾寺の間には古墳が存在する。多分秦氏の有力者の古墳だと考えられる。

稲荷山から深草のこのあたりまでの東山連峰の先に当たる山並みに古墳が点在している。

これも多分秦氏一族の有力者のものと思われる。

仁明天皇陵を深草の地に造営されたのは,近くに檜尾寺がありそこに住居していた実恵との関係があると考える。

又同じようなことは仁明天皇の皇后だった藤原順子皇太后の陵は実恵の弟子の恵運が創建した安祥寺の傍近くに在る。

八坂の塔で名高い法観寺は同じ頃に建てられた寺院でやはり渡来人によって建てられたとされている。

小野の曼荼羅寺即ち随心院を開祖した仁海が檜尾寺の上座としていたとする説として記録が真言宗全集の血脈類集の

「仁海」の項のところで認められる。

その頃の平安中期頃から廃寺となつていったようだ。

当該地は最近急速に,宅地化され,昔の様子を知る者は次第に少なくなり記録にとどめるように努めている。

木村捷三郎先生とは20-25年位の差が有る。


昭和30年代頃の現場付近の様子


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