野兎茶房謹製薬草酒

〜店主口上〜

 薬草酒、始めました。生きてきた道の途中で出会ったさまざまな事を、店主吟味の上、乾したり煎じたり、一度熟成させてみました。
 漬け込むベースはやはり無色透明といかず、店主の色がついていますから、読んで下さった方によってはこんなの嫌いだと思われる方もおありかと思います。  でも、時に口に苦くても、いつかじわりと、読んで下さった方の心に染みてささやかなお役にたつ時がもしもあるならば、幸いです。



(2003.7.24) 〜 それを必要とする人がいる 〜

 毎日、なんとなく行動していませんか。

 道を歩いていて、道幅いっぱいいっぱいに、歩いていませんか。
後ろを振り返ったら、急いでいる人が横を追い越したくて出来なくて、イライラしているかもしれません。
急いでいる理由は様々、だけど、本当に急がなくてはならない理由があるのかもしれません。それとも声をかけてよけてもらうほどの事でもないから、我慢しているのかもしれません。

 席が空いたので、座った、その席はシルバーシートではありませんか。
席を譲らなくてはならない、すごく年取った人、見るからに大きなお腹の人、その他、そんな人は滅多に乗って来ないし、自分だって疲れているんだし。自分の前が空いた結果は当然受け取ってよい権利なのだから。
 だけど、うんと年取っていなくたってちょっと年取った人は、結構大変な思いでやっと電車に乗って一息、さて、座りたいなぁ..って思っているのです。今平気だと思っている人の誰だって、数十年すればそうなるのです。
 だけど席を譲って断わられて気まずい思いをしたり、そもそもいちいち座った後でどんな人が乗ってくるかなんて見てられない、関係ないじゃん、って思うかもしれません。

 ...だけど。
それを、自分よりも必要としている人が、いる。
そういう風に、ちょっとだけ、思ってみませんか。

 この現代は、老いていようが若かろうが、やっとであろうが余裕があろうが、同じようにしか扱われない、早いもの勝ち、そして他者への無関心が当たり前になっています。
 弱者になって初めて、それがとてもさびしく感じるのかもしれませんね。
 健康を損ねて初めて、自分が一人の力で勝手に生きているだなんて、とうてい思えなくなる、そんな傲慢な気持ちではとうてい日々生きていけなくなるのかもしれませんね。

 でも元気で、自分一人の力で勝手に生きていられるような気持ちでいるうちに、一つだけでも、どうですか。
 自分がしたって痛くも痒くもない事を一つ、急いでいない時に一つ、疲れてない時に一つ。
譲ってあげるのは、ちょっと損した気分になるかもしれません。
タイミングもあり、うまく行かない事もあるかもしれません。
意味を成さず、徒労に終わる場合もあるかもしれません。
 「人の役に立つように」「世の中のためになるように」「人様には優しく」なんて教える母親が、今の時代はいなくなってしまったのかもしれません。
 でも必ず、返ってくるのです。
ちょっと見た目には馬鹿みたい、と思うかもしれません。

 だけど、それを、必要としている人がいる。
胸にいつも、その言葉を、お守りみたいにぶら下げて、みませんか。  







(2000.4.22) 〜 金魚の水槽の前で 〜

 晩秋の事でした。私は、とあるデパートの屋上にいました。

 屋上の一画がペットショップになっていて、魚の水槽が沢山積み重ねてあります。
様々な熱帯魚、ミドリガメ、コイ、そして金魚。
 どの店でもたいがいそうなのですが、「小赤」と呼ばれる小さな和金が、一つの水槽にぎゅうぎゅうに詰め込まれて泳いでいます。

 彼らはまず、観賞用ではありません。5匹で100円くらいで売られる彼らは、肉食の大型熱帯魚のエサとして買われる運命なのです。
 尾っぽの形や全体のバランスで、良いものを選別した後に残る、いわゆる「駄金」ですから、それも無理ないと思います。

 これだけ沢山が一つの水槽にいるのですから環境は劣悪です。少しでも体力の弱ったものは苦しそうに水面に浮かび、あるいは底にじっとうずくまり、死を待つだけです。
 しかしそんな弱ったものたちを尻目に、元気なものたちは人影を見ると、一斉に尾っぽを振り、押し合いへし合い泳ぎ寄って来ます。

 どれも健康なウロコを輝かせ、アタマを振り尾を振り、力の限り泳いでいます。
それは、胸が痛くなるような光景でした。

 もう、そんなに力一杯泳がないで、じっとして体力を温存して。
私が水槽の前から立ち去れば、少しは彼らの運動量が減るでしょうか。
 どうして、こんなに一所懸命泳ぐの。今こうしている間にも、仲間が死んで行くのが見えるだろうに。
 そしてたとえ劣悪な水質を生き延びたとして、買われても生きたまま喰われるしかないのに。



 立ち去る事も出来ず、見入る私の脳裏に、様々な思いが去来します。
自分が辛いと思っていた事、不幸だと思っていた出来事の数々。
 どうして、あなた方はこんなに辛いのに、どうしてそんなに一所懸命泳ぐの。



 小さな彼らは全身で精一杯、私に教えてくれたのでした。
命とは、こういう事だよ、と。
明日には死んでしまう身でも、今この瞬間は魚として生まれた特性そのままに、餌を食べ、呼吸し、力一杯泳ぐ、その事こそ、生きているという事なんだ。
 彼らよりほんの少し長い寿命を与えてもらったヒトの私が、何を思い悩む事があるだろう。
 生きなさい、ね、あなたもただ一所懸命生きなさい、と、金魚たちの声が聞こえます。

 私は、滂沱たる涙を流しながら、いつまでもそこに佇んでいました。







(2000.4.13) 〜 自分と世界の間にはスキマがある 〜

 「自分と世界の間にはスキマがある」これを忘れないでいる事が、私をずいぶんと幸せにしてくれました。
一体何の事でしょう。これから説明します。

 あるお店に行ったら、どこからか冷たい風が入って来て、寒い思いをした。
という状況を考えてみます。
 寒いという事は「寒くてイヤな思いをした」と解釈します。これは大袈裟に言えば「冷たい風」という災難が降りかかった状況です。

 しかし、災難イコール「不幸」でしょうか。確かにはじめの一瞬は、ちょっとは不幸かもしれませんが、同じ原因からいつも同じだけの不幸が招かれるのでしょうか。

 (1)持っていた上着を着て、寒さを防いだ結果、寒くてイヤな思いはすぐ止んだ(不幸ではなくなった)。
 (2)窓を閉めた結果、寒くてイヤな思いはすぐ止んだ(不幸ではなくなった)。
 (3)窓は閉まっていたがまだ寒く、頼んで暖房をつけてもらった結果、寒くてイヤな思いはすぐ止んだ(不幸ではなくなった)。
 (4)そのままガマンした結果、風邪をひいてしまった(不幸になってしまった)。
 (5)他に面白い事があり、結果、寒さなどどうでも良くなった(不幸ではなくなった)。

 いかがですか。

 降りかかった現象に対して「どう解釈し、どう対処するか」は、実は自由なのです。
 (3)の風邪をひいてしまった人は自ら招いた結果なのです。もし、いろいろやるのが億劫でじっとしていたとしたら当然、自分が悪いのです。冷たい風が悪いのではありません。
 もしいろいろやってみたのに駄目だったとしたらそれで初めて「災難」です。が、「次回は上着を持って行こう」という経験を積んだはずです。もし以前にも同じ経験をしているのに性懲りもなく同じ結果を招いているとしたらそれは自ら不幸を買って出ているようなものです。

 もちろん人間ですから同じ失敗を繰り返す事もありますし、そもそも客に寒い思いをさせる店、というのもどういうものかとは思います。が、ここで言いたいのは、いつ起こるともわからない災難にいちいち不幸になる必要はない、という事です。

 つまりたとえ外界から何が降りかかろうとも、自分にはそれをどう解釈しどう行動し、結果どう影響を受けるかを、選択する余裕が与えられているのです。
 これを「スキマ」と考えます。
もちろんいつもスキマがあるわけでもなく、コントロール不能の場合もあります。例えば身の危険を感じた時など、なりふり構わず逃げなくてはいけません。
 しかし日常生活の中で、私たちが「不幸だ」と感じるのは、一見のっぴきならないように見えても、もっと本当はコントロール出来る場合が多いのです。

 このスキマを使って、自分の中で自動的にいつも出ている結果を、あえて変更する事も可能です。それこそがカギだと思うのです。
 人間関係はその最たるものです。
同じ誉め言葉でも、皮肉だと思って怒る人、素直に喜ぶ人、様々です。
 では、自分はどうでしょうか。
何か言われて自動的に反応していませんか?
スキマで、一呼吸置いて、より適切な返事を心がけると、いつもと違った答えになるかもしれません。



 なにもかも上手く行かない人というのはいないと思います。
けれどなにもかも不幸だと思ってしまう人は、中にはいます。
 同じダメージを受けても、すぐ立ち直る人と、いつまでも嘆いている人がいるのはどうしてだと思いますか?
 同じ毎日を生きているのに、いつも楽しい人と、いつも何か不満を背負ってつまらなくしている人、どちらが良いですか?

 自分自身ほど自由に変えられるものは他に無いのです。







(2000.1.17) 〜 人と対峙するより人と沿う 〜

 貴方が何か困っていて、人に支援を頼まざるを得なくなったとします。
「○○してくれない?」と切り出してもよいのですが、相手がいつも快く引き受けてくれる時ばかりとも限りませんよね。お互い忙しいときもある、つまり善意はあっても支援出来る状況にない場合だってあるわけです。
 親しい相手だと遠慮なく「なんで?」と訊いてくる事だってあります。そう訊かれてから初めて、困窮している状況を話しても遅くはないのですが、波長が合わない時にわけを説明してもなかなか共感してもらえない場合もあります。別にその人がケチなわけではなく、そういうタイミングというのもあるものです。
 あるいは、相手の性格によっては、面と向かって最初に「○○してくれ」と言われたものを無下に断わるわけにはいかないと感じていて、無理にでもやってくれてしまう人も時にいます。
 いずれにせよそうなってしまうと、相手にいくら悪気がなくとも「○○しろと頼まれたからやった」という、この支援一回限りで終わってしまい、後はまた、自分一人が取り残されるわけです。助けてもらって少しは楽になりましたが、全体の困窮の状態を知るのは相変わらず自分一人、そして助けてもらった分、その人に感謝を現わさないわけにいきません。やれやれ、かえって荷が一つ増えました。

 一人でやった方が早いから、と思う時の気持ちは、だいたいそういったところでしょう。
 このパターンでは、自分ともう一人の助っ人、という2人の人が関わっているのに、足しても1.5人分にも満たない効果しか発揮出来ないわけです。
 これは相手と「対峙」しているからです。向かい合って自分の手札を一枚ずつ見せあっている状態だからです。

 では、初めに戻って考えてみましょう。「○○してくれない?」ではなく、「××という問題が起こってどうしようか困ってるんだけど..」と切り出してみたらどうでしょう。
 そう話し始めてから、相手の反応を見ていれば、それ以上話を発展させてもいいか、今はこれで切り上げた方がいいのか、自然にわかって来ます。

 相手の人が自分の考えをさらっと言える性格なら、「ごめーん、私も今大変でさ、力になれないよー悪く思わないでね」と言葉にして断わるかもしれません。
そうでない性格の人なら(このまま話を聞いていたら何か頼まれそうだ、どうしよう..)とドキドキして黙っているかもしれません。そういう気配だったら、「何かアドバイスを聞きたかったんだけど、ありがとう、話していたら解決法を思いついたから、これからやってみます。じゃぁね、お邪魔しました!」と退散すればいいわけです。こちらが話しているうちに、相手は状況を知って、自分を傷付けずに断わる言葉を用意する余裕が持てるので、気遣いのある断わり方をしてくるかもしれません。どちらにしてもお互い次に後味の悪い思いをしなくて済みます。

 そうでなくて、助けになる気持ちが自発的に起こった人すなわち善意だけでなく同時に支援に適した状況にもある相手なら、話していて手応えが違いますから、そういう場合のみ、今度は「どうしたらいいと思う?」と切り出せば良いのです。
 この時点で、××という問題はもう貴方一人の物でなく、二人の共通の問題に変わります。
 人というのはありがたいもので、乗りかかった船、という言葉通り、いったん自分の問題と認識すると、最後まで責任を果たしてやろうという気になってくれるものです。
 これは相手と自分が「沿って」いるからです。今度は自分と同じ側に相手に来てもらって、一緒に手札のどれを切るか考えていくのです。2人の人間が、3人分にも4人分にも値するようになるのです。
 もちろん、事の発端は貴方ですから、最後まで責任とイニシアチブは貴方が取るのは忘れず、感謝の気持ちも忘れずに。



 いかがですか。これは信頼している相手とならもちろん出来ますよね。
また、今まであまり親しくなかった相手と、こうして信頼感が育ってゆく事もありますから、状況をみて物怖じせず頼ってみてもいいと思います。

 さて、最後に、一番大切なことを述べておきます。
今度は、立場が変わったら自分が惜しみなく相手に協力すること。
 もし惜しくも善意はあっても支援出来ない状況だったら、誠意をもって相手に伝わる言葉でもってきちんと断わること。やせ我慢は2人ともにとってマイナスにしかなりません、次の機会に支援する事を誓って、潔く謝りましょう。
 人それぞれ、それぞれの人同士、その伝え方はいろいろあると思います。




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