野うさぎ茶房オープンテラスにようこそおいで下さいました。
桜の木の下で物語など、いかがでしょうか。
ただし長い物語です。接続をお切りになったあとで
ゆっくり読んでいただくのがよいかもしれません。


いいお天気ですね、緑茶と桜餅なぞいかがですか。さて、さっそくですが、お客様方、桜を、怖い、と思ったことはありませんか。..満開の桜の密集している所は時空の歪みができやすいようです。七分咲きではまだありませんが、完全に満開になった時に見に行くと、辺りを圧倒するように咲き誇る薄紅色の雲の中に引き込まれるような、そのまま目を外らせず桜に喰い尽くされてしまうような、..そんな感覚がやってきます。古くから桜の名所とされる場所は特に強いようです。

けれどそれは後日として今日は、別の物語をしてみましょう。古い神々の、物語を。
古くいにしえの時代、桜には、こんな話もあります..



空の神はひとつため息をつき、眼下にいつも見下ろす大地から目を外らしました。

季節は春真っ盛り、瑞々しく萌え出た緑と、とりどりの花々のにぎやかな色彩が生命のよろこびを高らかに歌っています。ひばりが、高く高く舞い上がり、胸を反らし、美声のありったけを張り上げて歌い出します。
小さな、空の神にとってはとるに足らぬような微々たる生物どもが、こんなにうれしそうにしているのに、空の神ひとりが晴れやかには笑えませんでした。

「神様、神様、どうしたのです、どうして曇ってしまわれたのです。」
ひばりはあまりに高くまで舞い上がり、空の神の顔のすぐそばまで来たことに自身でびっくりしましたが、でも思わずそう問いかけずにいられませんでした。

「神様、皆、あなたの笑顔を待っています、植物たちなんぞはあなたが微笑みかけてくれないと皆弱ってしまいます。私も、私の巣を草原(くさはら)にかけるのに、あなたの光でよく乾いた地面が要るのです。」

空の神は大義そうに身じろぎしました。
そのひとつ目、アポロンの火の燃える太陽の瞳をちょっと見開くと、途端に雲間からさぁっと日の光がさし、辺りはまばゆく輝きました。大地が暖かい水蒸気をほぅっと吐き出し、地上の生き物たちはますますよろこびに忙しく立ち働き始めました。

「空を舞うものよ、そんなに私の光が必要か。」
空の神は訊きました。

ひばりはもう、翼にありったけの力を込めてはばたいてみせながら、大きく何度も何度もうなずきました。
「そうです、そうですとも。」

「冬が終わり、春がやってきたのだったな。」
「そうですとも。」
「では、あれは忙しくしていることだろうな。」

空の神はまたため息をつき、まぶたを重く閉ざしてしまいました。
たちまち、分厚い雲が空を覆い、花たちはこのまま咲いていたものか、もう夜に備えて花弁を閉じたものかと、ちょっと小首をかしげて思案しました。
狩りの最中だったアシナガバチは、振りかざした槍の手をちょっと止めました。そのちょっとの隙に、青虫は金縛りから抜け出し、必死の思いで身体をのたくらせ逃げ出しにかかりました。

ひばりは何も言えません。
ただ羽根を世話しなくはばたいて、その場に立ち尽くしていました。

「あれが私のことを見上げてくれた日は、いつのことだったか」
空の神は、大地の女神のことを言っているのでした。
遥か悠久の時の昔、空と大地とはまだ手の届くくらい近くに暮らしていたのです。

「冬の間、私はあれの眠る姿を見つめていた。あれの安らかな眠りを妨げないよう、たくさんの柔らかな白い雪を落としてやり、優雅な寝姿に寝化粧をしてやった。」
冬の間、空の神は孤独でした。
さびしさのあまり、冬将軍に命じて空の狼たちの駆る戦車をめちゃめちゃに駆けさせ荒れ狂ったこともありました。
山々を引き裂くかのような空の神の叫びは激しい雪嵐となり湖を凍らせ山の木々を痛めつけました。

「あれの目覚める気配に、私は躍り上がりたいくらいうれしかった。」
「ええ、覚えていますとも。」
春一番の吹き荒れた日のことを思いだし、ひばりは精一杯うなずきました。

「けれどいつの頃からか、あれはあれの生み出したたくさんの小さな生き物どもに囲まれ賛えられ、常にたくさんの生き物に祝福を与え続けることに終始するようになった。」
「それらはあなたのお子さんでもあるのですよ。」
「そうかもしれない。だが、私は孤独なのだ。..もっとも、お前のように時折訪ねてくれる孝行なものもあるがな。」
空の神はひばりにちょっと笑いかけました。ひばりはうれしくて、辺りを飛び回りさえずりました。

「..あれは幸せなのであろうな。」
眼下からは無数のあふれんばかりのよろこびの歌が聞こえ続けています。
大地の女神は、ゆたかに萌え出でた緑の木々と草の芽のドレスをまとい、ありとあらゆる色の花々で飾られ、その周りを、蜜蜂や蝶や鳥たちが飛び交い、 その一つ一つが皆、大地の女神を賛え歌っていました。

空の神はその神々しくも 美しく豊かな女神の姿にじっと目をやり、そうしてその美しさに打たれたかのように、うなだれました。その目から、一粒の涙がこぼれ落ちました。

下界では春の暖かなにわか雨に、地面を這う虫たちは一目散に逃げ散り、木々はうれしそうに口を開け、草の芽がざわざわっと伸び身じろぎしました。
背中を雨粒で銀色に光らせた一頭の鹿が、柔らかな草を踏みしめすっくと立ち、その黒曜石のような瞳をきりっと空に向けました。

ひばりは、この雨に置いてきた巣のことを思い出していっさんに飛び帰ろうかと思いかけましたが、空の神のあまりに悲しそうな様子が気の毒になり、そのまま空中にとどまっていました。

「あれは、もう忘れているのだ。私と過ごした日々のことなど。私はすぐ昨日のことのように今も思い出す、古い時代のことなど、あれにはもう必要ないのだ。」
空の神の想いはひしひしとひばりの胸を打ちました。万能の、全ての生き物の上にしろしめすこのお方が、こんなに悲しんでおられる。
ひばりは一心に考えました。そして、ある考えがひらめいたのです。

「神様、文をお送りになっては。」
「ふみ、だと。」
「ええ、そうです。あなたがここにいてあの方をいつも見守っていると、あなたのお気持ちを、お送りになるのです。」
「しかし、..」
「いいえ、私ども下界のものどもは知っております、風花は、あなたさまが大地に宛てた恋文だと」

「あれは、そうではない、私の涙なのだ、独白なのだ。冬に私が、おだやかにひとりぼっちになる日に降らす、あの雪は」
こんこんと降る雪が、優しい哀しい光を帯びてふうわりと地面に届けられるさまを、ひばりも何度も見ています。

「もう風花の季節ではない」
「神様、なぜ風花と呼ばわるかご存じないのですか、本当の花の季節は今なのですよ。そうだ、..そうですとも。」

ひばりは意を決したと言わんばかりにちょっと言葉を切り、胸一杯に息を吸うと、
「..桜よ、桜よ、地上で一番美しい花の女王よ、あやかしの仙女よ、ここへおいで。」
と、眼下に咲き誇る桜の巨木のこずえめがけて、大声で呼ばわりました。

一介のひばりごときに呼びつけられて、誇り高い桜の女王は何事かと怒りに肩をそびやかしながら、空に現れ出でました。しかし空の神の姿を見るとはっとし、低くこうべを垂れ、貴婦人の礼をしました。
ひばりは、今を盛りと咲く匂いたつばかり桜の美しさまぶしさに翼をかざして目を半分閉じながら、切り出しました。
「桜さん、失礼な呼び方をして済まなかった、実はあなたにお願いがあるのだ。」
「神様のためならば、なんなりと仰せつけ下さいまし。」
桜の女王は、おもてを上げ、微笑みました。その美しくあでやかな顔はどこかしら大地の女神に似ていました。

空の神はひばりにそっと手を差し伸べ自らの肩に止まらせ休ませると、代わって重々しく口を開きました。
「桜よ、お前は大地より伸び出でしもの、その中でもひときわ美しく、声高らかに春を謳歌せしもの。」
「はい。」
「お前の美しい花びらたちが歌い終え散りゆく時、悲しいか」
「いいえ神様、悲しくはございません。大地の女神様に頂いた美しさをお返しするだけのこと、またこうしてひと回りする時を生きることを許され、またそののちにもう一度咲くことのできる、その感謝の気持ちしかありませぬ。」
「では桜よ、お前の散りゆく花びらには、女神に対する愛が込められているのか」
「その通りでございます。」
「そうか。..ならば、散りゆくがいい、私の吹かす風に乗り、大地に届くがよい。」

空の神はそういうと、優しい柔和な笑みを浮かべ、ふっ、と小さな息を吐き出しました。

それはそよそよとおだやかな、うららかな春のそよ風となって、木々の若芽をさわさわと揺らし、草についた雨のしずくを振り落としました。
桜は、咲き終えた花びらから順にはらはらと散りながら、空の神に典雅な一礼をし、大地のもとへ帰って行きました。

その薄紅色の花びらが、風に舞います。そうして、春のそよ風には、空の神の恋が宿っているのでした。

「花びらひとつに、うたがひとつ。花びらひとつに、想いをひとつ。..」
いつしかひばりはその光景に酔ったようにうっとりと、口ずさんでいました。

空の神は、桜の散りゆくさまを、いつまでもいつまでも、見つめていました。







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