〜開の巻〜

 『私の息子を「僚」と名付けよう。河の良き友となるように。』
と、更は日記につづっていた。

 当主として引き継いだ書物の中には、こうした、他の者にはあずかり知れない、私的な物までが含まれていた。
僚は、ほうっと一つため息をつくと、母の日記をぱたりと閉じた。

 河が亡くなってすぐに、河が遺した手紙を手はじめに、片端から読み続けて、もう丸一日が過ぎようとしている。さすがに、瞼や首筋に鈍い疲れがたまっていた。
「あぁ、今日のところはそろそろ寝よう。」
肩を回しながら、僚は誰に言うともなくつぶやいた。
「..河に、会ってから寝るか。」

 河の亡骸におやすみを言って寝ようと思った僚は、部屋の入り口で足を止めた。
そこには、開が静かに座していた。
(..そうだよな..河の最期を看取ったのは俺一人だもんな。開だって、本当は父親が死ぬまでそばにいたかったんだ..)
気配に気付いて、開が振り返る。その瞳は静かで、涙の跡は無かった。
「あぁ、開、悪いな。邪魔しちゃって。」
「いいえ。僚兄さん、もう自分の部屋に戻るところですから。」
そう言って出ていこうとする。その背を、僚は呼び止めた。
「開。」
「はい。」
「その..済まなかった。河の死に目に会わせてやれなくて。」
そう言うと、開はにっこりして首を振った。
「いいんです、父様は、僚兄さんと最期の時を過ごそうと決めておられた。そのご意思の通りにしたまでです。」
「そうか。開、..父様が死んでさびしいだろう。」
「..はい、少し。..あの、僚兄さん。」
無駄な事は言わず、いつも落ち着いている開にしては珍しく、口ごもる。
「なんだい?」
「あの..父様は、私に当主を継がせなかった訳を何と書き遺していたのでしょう?」
「あぁ、その事か。」
開も、当主に指名されなかったのが意外だったのだ。おそらくは、河の亡くなるその時から次の当主として任を果たすべく、心構えしていたに違いなかった。

「開、生前、河はお前に何と?」
「はい、..次期当主として一族を束ねよ、と。」
「そうか。..そうだ、開。その通りだ。俺は、つなぎでしかない。本当にこれからの一族を束ねて行くのは開、お前だよ。」
「えっ..」
その顔に、みるみる輝きが戻って来た。
「河自身は、2ヶ月で当主を継いでいる。その経験から、あまりに若くして当主になるよりは、数カ月でも成長を待ってからの方が良いと思ったんだ。..当主の指輪を着けるのは、それからの方が良いんだよ。」

当主の指輪。
それこそが、河がすぐに開に当主を継がせなかった第一の理由だ。
当主の指輪をはめてしまうと、他の装飾品を着ける事は出来なくなる。雪のたすき、嵐の腕輪、といった装飾品の助け無くして戦うのは、若い時期にはかなりのハンデとなる。
その点、体力・迅速さともに充分に発達した、青年期以降の者ならば、指輪の拘束も苦にならず戦える。
「開、お前は真面目だから、結構悩んだんだろう。自分が当主に値しないのでは、と。..違うか?..」
「..えぇ、そうです。」
僚は頭2つ分ほど大きい開の背中を、ポン、と叩いてやる。
「気にするな。開、俺は、お前が当主の指輪を着けるまでの間の、指輪の台座みたいなもんだ。河の血をひくお前こそが、正当な当主だよ。」






 開が、明るい表情に戻って部屋を出た後、僚はぽつねんと河の亡骸の前に座った。
(河..だがそれだけが理由じゃない。お前は、俺に、全てを知ってから死んで欲しかったんだ。俺に、..河、お前は、お前の悩み苦しんだ全ての事を、俺に、知らせたかったんだ。そうだろ?河。)
問いかけてももう、その美しい顔が目を開ける事はない。紅をひいたかのように妖しく赤い唇から、あの澄んだ声がする事は、もうない。
(河..今ごろお前の魂はどこにいるのだろう。)
能力の高い河は氏神になれるかと、僚は期待したのだが、イツ花がその相談を持ちかけてくる事は無かった。
(河..俺はお前の友となるべく生まれたのに、本当のお前をわかってやれたのは、お前が死んでからだったんだな。)
それでも、自分が常に行動を共にし戦う事で、河の孤独は少しは癒されたのだろうか。
(済まなかったな、河..俺はいつも、お前の決断に文句ばかし言って。)

 当主というのは、孤独なものだ。
共に戦う仲間がいながら、誰にも頼れない局面がある。
他の者の不平不満を承知の上で、決断を下さなくてはならない時もある。
幾つもの優れた判断をしても、たった一つの誤りで、一族を危険に陥れる事だってある。
自分の指揮のもと、勝って当たり前、しくじれば責任は全て自分、言い訳は出来ない。
(俺はもっともっと、河の気持ちをわかってやらなくちゃいけなかったんだ。)
あの時、河はこんな気持ちだったのだ、またあの時はこうだったのだ、と、思い出せば今やっとわかる事ばかりである。後悔の念は尽きなかった。
が、僚は一つ大きく首を振ると、河に微笑みかけ、立ち上がる。
(ごめんな。天国で会ったら、たくさん謝るよ。だが、その前に..俺はあと少し生きて戦い、開を当主にふさわしく育ててやらなきゃならない。河、お前の考えた通りにな。..もう行くよ。)
もう自分には、河のそばでぼうっとして過ごす時間は無い。
僚は、明日、河の遺骸を荼毘に付すようイツ花に命じるつもりだった。





 数カ月はあっと言う間に過ぎた。
河が計画した通り、開は装飾品の助けを得て無事戦闘を乗り切り、めきめきと強くなった。
衰えを知らぬ槍の威力で、開と共に戦い、多くの戦勝点を稼いだ僚だが、その寿命にも先が見えて来た。

 「..本当に良いのか。」
屋敷に帰ったある夜、僚は部屋に開を呼び出し、向かい合って座っていた。
開は黙ってひたと僚の目を見据えている。
その実直な瞳の中に、気が付くと僚はまだ、河の面影を探している。そんな事にふと気付いたが、僚は気を取り直し、言葉を継いだ。
「俺は今まで、河の遺した指示通りにやってきた。それで今までは良かった。だが、開、..俺はおそらく来月には死ぬだろう。その時、お前はまだたったの5ヶ月..元服すなわち交神が出来る歳ではない。元服まで4ヶ月、そしてすぐに交神したとして、子供が来訪するのにさらに2ヶ月。..たった一人きりで、そんなに長い間、大丈夫なのか。」
「はい。」
開の目に迷いの色は無い。それが父の遺志であるなら、その通りにするだけだ、と、その瞳が語っている。

 一方、僚は大いに迷っていた。
河は、一人きりの戦闘を経験している。だから、息子の開にもその苦難を味あわせてやむなし、と考えたのだろう。
だが、本当にそれで良いのだろうか。
(河の経験は2ヶ月で終わった。その後は俺がいたからだ。だが開は、自分で子供を育て一人前にして一緒に戦うまで、ずっと一人だ。)
開ならやれるだろう、と思う。
この、どこか憂いを帯びた大人びた顔に、いつも何か思い詰めたような目をした、河の息子は、父親からそう言い聞かされてきている。
(だが、出来るだろう、というのと、辛い思いをさせていいのかというのは違う問題だ。)
僚の人生には一人ぼっちだった時期は全く無い。子供の頃には母が、そして後は河が、常に一緒にいた。
(河..心の強いお前は、同じく息子も心強くあれと思ったのだろうな..。だが俺は、弱虫でさびしがりだ。河がいなかったら俺は、一人でなんてとても戦えなかった。いくら開の能力が高くても、開自身の決意が固くても、..。河、..現時点での当主は俺だ。俺にその決断をさせるのか..)

 「開、お前はきっと要らぬと言うと思う。が、俺は..俺が今月交神に行けば、開、少なくともお前は2ヶ月後には一人ではなくなる。」
そんな事、と思っているのだろうが、開は黙って聞いている。
「そう..開、お前の父様の友になるべく、俺は生まれた。俺の血筋は、そうだ。お前の父様の母様、つまりお前のお祖母様と俺の母親は姉妹だった。その時から俺の血筋は正当な当主たる者を助ける役割を担って来たんだ。..俺の..俺は、自分が子供を作れなくても構わないと思っている。お前さえ次の世代へ血をつないでくれればそれで充分だ。でも俺は、お前に一人きりでなく、友を与えてやりたい。お前の父様に、俺がいたように。」
思い切って開に心の内を言ってしまう。河だったらきっと、一人悩み抜いた挙げ句、一人結論を出し、言い渡すだけだろう。

 「ありがとうございます。..でも、私は大丈夫です。」
開が笑みを浮かべ、やんわりと僚の申し出を断わったのは、予期した通りだった。
 僚は、本当に悩んだ。
そして悩みながら、結局交神には行かず、河の計画した通りに開を一人残す事になった。





 頭脳明晰な河が、たった一つだけおかした過ちが、そして愛情豊かな僚が、たった一つだけ満たしてやれなかった事が、実はそれだった。

 僚が死んだ後、開は黙々と一人、戦いに赴いた。
その辛さはどれほどだったか、開はもちろん、決してイツ花にも泣き事一つ言わなかったが、戦いから帰る度、ごっそりと減っている開の健康度が、その壮絶さを雄弁に物語っていた。
 開の命が一体元服まで保つのか、イツ花は危ぶんだが、開は無事交神の儀を迎える事が出来た。
開は太照天夕子との間に双子を授かった。
 だが、命を削り孤独に耐えてきた開は、子供らの来訪を待ち、その子らの一方を次期当主に指名し終えると、眠るように息絶えた。
 その、まだ若い死は、一体誰の責任であったのか。
イツ花はもう、亡くなって久しい者たちを責める気にはなれなかった。ただその死を心から悼み、手厚く葬るだけだった。

 亡骸のそばでは、来訪したばかりの男の子と女の子の双子が、父親の死も知らずにすやすやと眠っていた。

 どちらも、開によく似ていた。  









 










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