「2007年の暑い夏」創作ノート4

2007年9月

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09/01
暑い夏もようやく終わったのか。今日は肌寒いくらいだ。スペインはまだ暑いとのこと。孫の世話をしている妻が気の毒だ。こちらはひたすら仕事。「夫婦の掟熟年版」のプリントをチェックしている。昨日も夕方の待ち合わせまでの30分ほどでかなり読んだ。出だしはうまくいっている。いい感じで展開できているので、問題はない。短い本なので重複している内容がないかチェックしたい。後半もうまくいっているはずなので、中盤の中だるみも気をつけたい。明日にはチェックを終えて入力作業に入る。来週も出かけることが多いのでこの週末で決着をつけたい。
9月に入った。ここまで順調に作業を続けてきた。9月は休憩の月としたいが、この間に童話を一篇書きたい。10月からは「西行」に取り組む。そのまま年末まで西行にかかりきりになるだろう。来年の仕事だが、「西行」は全生涯を書くとなると大長篇になる可能性もあるので、保元の乱のあたりまでと考えている。生い立ちと待賢門院との恋に焦点をあてる。問題は妻の存在だ。伝説では妻と女児がいることになっているのだが、そうすると不倫ということになる。それを美しく書かねばならない。まあ、じっくり考えよう。
並行して「親鸞」についても考えたいが、もう一本新書が書く約束をしている。マルクス主義を一種の信仰ととらえる視点から、日本の学生運動の歴史を概括したい。いずれはやらねばならぬ仕事だと思っていた。定年退職した同世代の読者に、人生を総括するヒントになればという思いがある。同時に、40年前のことを江戸時代みたいに感じている平成生まれの若者たちにも、あの時代の若者の信仰をわかりやすく解説する意味がある。テーマはすでに出来上がっているのだが、実際に書くとなると、キーワードを押さえないといけないので手間のかかる作業だ。資料を準備したいが、最近はネットの情報でも充分に役に立つのでありがたい。

09/02
わたしは朝6時近くまで仕事をしている。このまま女子マラソンを見ようかとも思ったが、体がもたないので寝た。午後に再放送をやっていたのでゆっくり見た。大阪のマラソンは、わたしの少年時代のテリトリーを通る。玉造、森ノ宮、というJRの駅はわたしには親しいものだ。もっとも学校は徒歩で通った。そのコースが大阪城内だ。マラソンの往路は大阪城の西の大手前を通る。府庁の隣の大手前高校がわが母校だ。復路は森ノ宮の近くまで行って、玉造門から大阪場内に入る。ここは中学校の時の通学コースで、そのまま内堀を半周して退手門(からめてもん)を出てすぐに右にUターンして今度は外堀に沿って森ノ宮の方に戻る。その退手門の前のあるのが、小学校と中学校、9年通った追手門(おうてもん)学院だ。カラメテ門の前にあるのに追手門。
外堀に沿って戻ると、森ノ宮の駅の手前に噴水を中心としたロータリーがある。ここにも思い出がある。わたしは幼稚園の頃は補助輪のついた自転車に乗っていたのだが、小学校に入ると乗らなくなったので、高校生になっても自転車に乗れなかった。それではいけないと思い、高校生の頃、夜中に自転車を押して歩いていき、このロータリーのまわりで練習したことがある。その前に、なぜ自転車は倒れないのかと原理を考え、右に倒れそうになった時に右にハンドルを切れば倒れないという原理を思いついた。実際にやってみると、原理は正しいと思えたが、体がおいつかなくて何度も倒れた。原理だけではダメだと痛感した。それでも何度か試みるうちに倒れなくなった。頭で考えた乗り方なので、いまでもスムーズには乗れない。それは「自転車に乗れる」というほどの乗り方ではないと妻に指摘されるのだが、倒れないのだから乗れているのだろうと思う。
本日は日曜日。何ごともなし。プリントのチェックはまだ終わらないが、大幅な書き直しはないので、入力には時間はかからない。あと2日ほどで完了するだろう。今月は少し休憩する予定にしているので、ゴールが見えてきて嬉しい。

09/03
文化庁の小委員会。会場が今回から表参道になったので楽(最寄りの池尻大橋から2駅)。今日は暑いと天気予報で言っていたけれども家の中はまだ涼しい。さすがに外に出ると暑かったが、ぬるい風が吹いていてまだましだ。あの8月のような猛暑が復活しないことを祈る。

09/04
明け方、プリントのチェック終わる。仮眠してから入力作業。夕方に終わる。担当者にメールで送る。立松和平の出版記念会。懐かしい人々に会えた。いい会だった。「いちご同盟」42刷の報が届く。すごいね。

09/05
巨大台風が接近しているらしい。熱帯のような気温と湿気、そして時々のスコールのような雨。その熱気の中を銀座へ。博品館劇場で「消防士たち」という朗読劇。同時多発テロで殉職した消防士の葬儀で弔辞を読む隊長に、女性のライターがアドバイスをするという設定の中で、穏やかな日常に突如として襲いかかる不幸について、いくぶんセンチメンタルだがウェルメイドな台詞劇。原爆を落とした国の国民が何をセンチなことを言っているのだと日本人は思うのだが、それがアメリカだし、いまの日本も同じような状況だから、いい作品だと思う。明日は台風なので万一にそなえて食料品を買い込む。

09/06
台風。雨戸を閉め、どこにも行かず。最後に残ったNPO通信の原稿。けっこう手間がかかる。

09/07
明け方に台風通過。これが三ヶ日の仕事場だったら、家がぐらぐら揺れただろうが、三宿の家は鉄筋なので、シャッターを締め切ってしまえばわずかに風の音が聞こえるだけ。夜が明けて外をのぞくと、植木鉢がすべて転倒していた。被害はそれだけ。パラボラアンテナが家の前に落下していたので、あわててテレビをつけたがうちのテレビは衛星放送も映る。昼頃、電気屋が来た。裏の家のアンテナだったようだ。

09/08
土曜日。わたしが理事長をしているNPO日本文藝著作権センターの原稿を完了。これで当分の間、何も書かなくていい。ということで、このぽっかりあいた期間は、懸案の童話の構想を練ることにあてたい。

09/08
土曜日。わたしが理事長をしているNPO日本文藝著作権センターの機関誌の現行を完了。メールで送る。これですべての作業が終わった。妻がスペインに発ってからほぼ3週間。ひたすら仕事に没頭してきた。明後日の朝一番でこちらもスペインに行く。タイムリミットがあったので、とにかく仕事を片付けることに没頭した。めでたく余裕をもって完了。三軒茶屋に出て、孫に土産を買う。長女と次女には本。生まれたばかりの三女にはガラガラ。スーツケースは宅急便で送った。今日と明日はまだ仕事をする。何をするかはわからないが、なすべき仕事はいくつもある。童話の構想を練るというのと、次の仕事「西行」の準備。こちらは資料を読まないといけない。パソコンと最小限の資料、それに今日買ったお土産は手荷物としてもつ。長男の家は砂漠の中の別荘地みたいなところで、コンビニもバールもない。缶ビールのストックも限られているだろうから、ウイスキーだけはもっていきたい。一本はスーツケースに入れた。あと一本、免税店で買いたい。スペインではウイスキーは高価だし、知らない銘柄しかない。慣れた酒がいい。
乗り継ぎのパリ・ドゴール空港と、マドリッド・バラハス空港の地図をネットで探してプリントしておく。日航からエールフランスへの乗り継ぎだが、提携しているので2Fから2Fの乗り換えのはず。そうでないといったん外に出てバスということになる。以前、帰路に全日空を利用したらターミナル1で、とんでもないところまでバスで行った。ヒースローの方がましかもしれないが、ロンドン経由だとスペインで入国審査がある。スペイン後はまったく理解できない。パリ経由だとパリで入国審査になる。フランスの入国カードは項目が少なくて楽。
いずれにしろ一人で飛行機に乗るのははじめてなのでやや不安。いつも妻といっしょだった。一度だけ、次男とブリュッセルへ行ったことがある。当時はベルギーサベナという航空会社があって直通便もあったのだが、安売りチケットを買ったのでチューリッヒ乗り継ぎだった。しかし次男は大学生だから、わたしを案内してくれた。まったくの一人で外国に行くのは今回がはじめてだ。

09/09
日曜日。長い一日が始まった。これから徹夜のまま空港に向かい、午前10時発のパリ行きに乗る。乗り込んでしまえば座席に座っているだけで、すぐに食事が出て、ワインのミニチュア壜なども出るだろうから、飲んで寝てしまえばいい。しかし熟睡はできないだろうし、寝られなければ本を読むか、映画を見ることになる。パリで乗り継ぎ、短いフライトでマドリッドに着く。妻が出迎えてくれるはずで、マドリッドのホテルに泊まる。それが月曜日の深夜ということになるだろう。7時間の時差があるから、日本時間なら火曜日の明け方である。
わたしはふだんからヨーロッパ時間で生活しているので、時差ボケは生じない。午前中の会議がある日は3時間ほどの仮眠ででかけ、その日もふつうに仕事をする。それと同じことだから、飛行機の中で3時間ほど眠れれば問題はない。だがとにかく、長い一日であることはまちがいない。
大きな荷物は宅急便で送ってある。明け方まで仕事をして、パソコンと資料の本を小さなバッグに入れ、箱崎へ向かう。それが本日の作業だ。家の片付けと戸締まり、最後の洗濯と、ゴミ出しもしないといけない。一人で生活をしていると、ゴミ出しがプレッシャーになる。ゴミの種類によって曜日が違っているからだ。月曜は生ゴミの日なので、カンとプラスチックをべつにして、残りのゴミをひとまとめにして、出かける時に所定の位置に置けばいい。
さて、仕事を何にするか何も考えていなかったが、帰国するのが20日なので、PHPの連載が迫っている。疲れているのに締切があるというのはつらい。出だしだけでも書いておこうとパソコンに向かった。思いの外すらすらと書けて、半分以上書けた。スペインに行って続きを書くかどうかはわからないが、これだけ書けていけば帰ってきて書いてもすぐに書ける。妻がスペインに発ってからの3週間、ひたすら規則正しい生活を送ってきた。食事の時間がいつもより少しずれた感じだが、毎日一定のペースで仕事を続けた。「夫婦の掟熟年版」を完成させ(編集者からオーケーが出たのでそのまま入稿する)、連載の仕事も書きだめした。とくに追い詰められるというほどではなく、最後は2日ほどの余裕があったが、考えてみればこれほどきっちりと作業が進んだのは、奇跡的かもしれない。時間が経過し、最後の洗濯も終わり、パソコンの電源を切って手荷物に入れる。寝ないのでそのまま翌日なる。

09/10
徹夜のままで荷物をもって成田に向かう。タクシーで箱崎まで向かう。思いの外、手荷物が重くなったので、宅急便で成田に送った荷物に入れるものを別に持つ。早朝の成田。さすがに閑散としている。宅急便の窓口はまだ閉まっていたが、おじさんがこちらに気づいて荷物を出してくれた。持ってきたものをスーツケースに入れ、チェックイン。20キロを少しオーバーしたが、この程度は許容範囲。手荷物だけになったので、カード会社のラウンジで少し休んでから、入国審査。成田の免税店で酒を買おうと思い、山崎か焼酎か迷った末、昔ウイスキーが高価だった頃は、免税店で必ずシーヴァスを買ったことを思い出し、買おうとしたら、乗り継ぎの人はダメだと言われた。液体の持ち込みが厳しくなっているらしい。仕方がないので酒はパリで買うことにする。
飛行機は問題なくパリに向かった。スペインへは直行便がない。スペインへ行く人は多いはずなのになぜだろう。この前スペインに行った時はロンドンのヒースロー空港だったが、かなりの長距離を歩かされたので、今回は日航からエールフランスという組み合わせにした。以前、全日空でパリの乗り継ぎをしたらえらい目にあったが(ターミナル1は途方もなく遠い)、今回は同じターミナル2のFなので、最短距離。ロンドン経由だと入国審査がスペインになるのだが、パリだとフランスに入国することになる。入国審査の前に、搭乗券をチェックするところがあり、ターミナルの異なる人は、ここではダメなどと言われるのだが、わたしは問題ない。ただ案内のモニターにマドリッド行きは30番ゲートと出ているのを確認したのに、チェックした黒人のおばさんが、35番へ行けというので不審に思い、半信半疑のままで搭乗ゲートへ。ウイスキーを買ってから搭乗ゲートに行くと、35番は人の気配なし、30番にはスペイン人がたくさんいたので、これていいと思い、椅子に座って休んでいると、放送でマドリッド行きについて何やら言っていたのだが、目の前の30番のゲートに動きがないので、気にもとめずにいると、いつの間にか、周囲にいたスペイン人たちがいなくなっていた。え、と思ってあわててモニターの表示を見たのだが、そこはまだマドリッド行きは30番と出ている。しかし明らかに目の前の30番ゲートは、出発時刻の直前になっているのに係員がいない。これはゲート変更だと思ったが、モニターを見てもしようがないのでうろうろしていると、突然、あの黒人のおばさんが言ったことが頭の中にひらめいた。あの人は正しいことを言っていたのだ。35番まで走っていくと、乗客はすべて乗り込んだあとだったが、係員のおじさんがいたので、マドリッドと叫ぶと、ウェルカム、などとのんきな答えが帰ってきた。というわけで、ぎりぎりで飛行機に乗り込むことができた。
乗り継ぎ便に乗ってしまえば、あとは2時間ほどのフライトなので安心なのだが、地図をゲットしていたマドリッド空港でも、着いたゲートが地図からはみだしたところだったので、しばらくうろうろした。しかし、やや遅れた荷物のベルトコンベヤーの前に行くと、ちゃくと自分の荷物が回っていた。出口には妻の姿があった。ということで、あとは妻に任せればいい。妻は大学のカルチャーでスペイン語の勉強をしているので、簡単な会話はできる。ホテルに到着。飛行機ではほとんど眠れなかったので、西行の資料を一冊、全部読んでしまった。それで基本的な構想がしっかりと頭の中にできたのだが、さすがにホテルに着くとどっと疲れが出た。とにかく、スペインにたどりついた。一人でスペインに来たのは初めてなので、よく無事で来られたと思う。

09/11
長男のいるウエスカというのは嫁さんの実家のあるところ。アラゴン州の古都サラゴサから70キロほど離れたところで、いちおう県庁所在地ではあるのだが、人口5万ほどの小さな町だ。しかし最近、新幹線が開通して、一日に一本だけだが、マドリッドから直行便がある。これまではバルセロナからバスで行ったのだが、今回ははじめてマドリッドから行くことになった。その一日一本の列車は午後7時発なので、丸一日、自由時間となる。妻の提案で、マドリッドから列車で2時間ほどのセゴビアという町に行くことにした。ローマ時代の水道橋のある古都だ。電車に乗るのに苦労したのだが、ごくふつうの近郊電車がそのままセゴビアまで行くのだった。乗ってしまえばあとはのんびりと車窓を眺めているだけでいい。水道橋はこれまでテレビの紀行番組で見たことがあったので、画面で見たのと同じものが目の前にあるという感じで、すごいものだとは思ったが、それだけのことだ。町は島のような台地の上にあり、そこから少し先の水源の山までの間に谷があったので、巨大な水道橋を造る必要があったのだが、台地そのものは、ウエスカと同じくらいの規模で、小さな町だった。行きは歩いたのだが、時間が迫ってきたのでバス停を探してバスに乗って駅に戻った。
そしていよいよ新幹線だ。長男が一等を予約してくれたので、飛行機のようなオードブルとワインのサービスがあった。そんなことより、アベと呼ばれる新幹線が、小田急のロマンスカーが強羅まで行くみたいな感じで在来線に乗り入れていくところがスリリングだった。2時間に1本くらいの2両連結の列車しか走らない田舎の小駅に、12両編成の新幹線が乗り込むのだから、信じられない。この駅はバスのターミナルにもなっているので、バルセロナからのバスもここに着く。息子の迎えが少し遅れたが、一年ぶりで息子と再会。3人目の子供が生まれたのだ全長5メートルの新車を買った。その車に乗せてもらって、ウエスカ郊外のヌエノの住宅地に向かう。ここはゴルフ場に隣接した別荘地のようなところ。グアラ山という岩山のふもとのなだらかな丘陵地にある。息子も嫁さんもピアニストなので、市街地にあるマンションには住めない。この別荘地の建て売りはすべて庭付き一戸建て(ヨーロッパは連棟式の建物が多いのでスペインでも珍しい)だ。家に着くと、子供たちはすでにベッドに入って寝かかっている時間だったが、まず長女が下りてきた。長女は去年の夏に日本に来て短期間幼稚園に通っていたので日本語が通じる。もちろんジイチャン(わたしのこと)も憶えている。続いて生まれたばかりの3女が息子に抱かれて2階から下りてきた。これは初対面。生まれて2週間なので目がパッチリ開いて、鋭い目つきでこちらを見つめている。最後に次女が下りてきた。立って歩いているのを見るのは初めて。まだ2歳の直前なので、去年のことは憶えていない。ジイチャンといってもわからないので見知らぬ老人の出現に人見知りしている。これですべての孫が揃った。目的を果たしたので明日にでも帰りたい気分だが、ここには10日ほど滞在する。うーん、早く日常に戻って仕事をしたい。とにかくパソコンはもってきたのでこのノートは書き続ける。明日の予定は聞いていない。嫁さんは5人兄弟なので親族が多い。親族の集まりみたいなものが頻繁に催されるのでどこかで巻き込まれるかもしれない。とにかく、息子の家に着いた。いまはほっとしている。

09/12
息子の家で目覚める。赤ん坊が泣くのが目覚まし代わり。そんな生活は久々だ。長女は幼稚園に行くはずだが、家の中はのんびりしたムードだ。今日は休ませるということで、まずは車に乗り込む。息子はブリュッセル王立音楽院に通っていた頃から乗っていたホンダのシビック・ワゴン(日本では売っていない)を下取りに出してクライスラーの3列シートのワゴンの新車を買った。全長5メートル以上の車だが、子供が3人になったのだから仕方がない。息子は家はスペインでは豊かなようだ。嫁さんもウェスカの音楽院の先生で公務員だから安定している。赤ん坊の検診の日だったのだが、のんびりしすぎて時間に遅れ、午後に予約を取り直した。その間、嫁さんの実家ですごす。去年、お母さんが亡くなって、お父さん(ホアンさん)が一人で暮らしている。いまはリタイアしているが、公証人を長く務めていた人(スペインでは公証人は弁護士などよりはるかにステイタスが高い)で、穏やかで知的な人だ。
検診のあと、マクドナルドで食事をする。え、マクドナルドか、と思ったのだが、スペインのマクドナルドはビールを販売しているのだった。しかも子供のためのジムのある店で、子供が勝手に遊んでくれるのでのんびりできた。それからどうするのか、何の情報もなかったのだが、長男は夕方に仕事があるのだという。長男は州都のサラゴサにあるアラゴン州立高等音楽院というところの先生をしている。夕方、教え子の追試があるのだという。仕事だから仕方がない。で、全員でサラゴサに向かう。デパートで車から下ろしてもらい、息子はそのまま高等音楽院に向かう。われわれは、それぞれにばらけてデパートを回る。わたしはセゴビアのカテドラルで帽子をなくしたので、7ユーロのぼろぼろの帽子を買う。スペイン人はほとんど帽子をかぶらない。紫外線に対する恐れがないみたいだ。
サラゴサには嫁さんのお姉さんが住んでいる。旦那が医者、お姉さんが看護師というカップル。3人の息子も皆、優秀みたいだ。その次男は去年の夏、日本に遊びに来たので親しい。長男は州立の医科大に合格したばかり。次男の方もガールフレンドに励まされて急に勉強を始めたらしい。親も公認の彼女で、夕方表れたが、すごい美人だった。息子が帰ってくるまでの間、スペイン語のみが飛び交う世界になったが、妻が買い物があるといって抜け出してくれた。サラゴサのメインストリートの中央分離帯にあるテラスでカーニャを一杯。カーニャというのはグラスのことだが、それだけ言えば生ビールが出てくる。
ようやく長男が仕事から帰ってきた。金管楽器の学生だったが、留年が決まったとのこと。知らない人だが気の毒。深夜、ヌエノに帰る。タダの高速道路があるので1時間くらいの距離だが、息子はこの距離を通勤しているのだ。週3日だし、長期休暇も多いので、楽な仕事ではあるのだが。長い一日だった。スペイン人は昼食がメインで、朝はコーヒーとビスケット、夜はおつまみ程度しか食べない。本日は昼がマクドナルドだったので、ろくな食事をとっていないのだが、食欲もない。パリで買ったウイスキーがあるし、東京からおつまみは持参しているので、寝酒は問題ない。わたしは日本でもヨーロッパ時間で生活しているから、夜中にちょうど眠くなる。寝酒も必要ないくらいだが、しだいにストレスがたまりはじめている。子供のいる生活に慣れていないし、長男と嫁さんはスペイン人のペースで動くので、日本人はしだいにいらいらがつのることになる。朝、子供たちの仕度をしているすきに持参のパソコンを開いて少し仕事をした。書きかけのPHPの連載、ほとんど完成。こんな喧騒の中でもちゃんと仕事をするわたしは偉い。

09/13
今日は長男がパンプローナで伴奏の仕事があるということだった。昨夜、子供を一人つれていくと聞いたので、自分はオフだと思ったのだが、そうではなく、われわれをパンプローナにつれていってくれるということだったのだ。子供3人を残すと嫁さん(出産後まだ2週間)の負担になるので、次女をつれていくことにしたのだ。5歳の長女は聞き分けがあるし手伝いもできる。ということで、まだ暗いうちにヌエノを出発。パンプローナまではおよそ250キロほど。高速道路があるので2時間ほど。部分的に有料部分があるが、無料区間も多い。パンプローナは牛が暴走するお祭りで有名なので、小さな町かと思っていたのだが、近代的な街だった。芸術ホールの地下駐車場に車をとめて息子は仕事に出かけたので、われわれは2歳の次女のお守りをすることになる。芸術ホールの付属キャフェで朝食。すぐ前がコルテ・イングレスというデパート。周囲も街の中心部のようで商店が並んでいる。幅の広い道路の全体が歩行者専用となっている道が縦横に通っている。ベビーバギーを押しながら、のんびり散歩。適当に歩いていたのだが闘牛場の前に出た。ここが牛の暴走の終点。すぐ近くに、8頭の牛が市民をなぎたおしている光景を描いた迫真の銅像があった。そこも遊歩道になっているので先に進むと、もとのデパートに戻った。デパートの中のトイレに行き、出発点の芸術ホール前で息子の帰りを待つ。
次女はわがままで凶暴だと伝え聞いていたのだが、行きの車の中ではずっと寝ていた。散歩の間も実に静かでいい子だった。息子と合流して、デパートで入手した無料の地図に従い、旧市街に入る。道幅の狭い商店街となり、いかにも牛が暴走しそうな感じになってきた。ザビエルの銅像のある広場、さらにブリュッセルのグランプラスより広い美しい広場を抜けると、ここが牛の暴走コースという商店街に出た。気のせいか、壁に傷がいっぱいある。デパートに戻って昼食。スペインに来てから、はじめてのちゃんとした食事。スペインでは午後にディナーをとる。どこの店でも「本日の定食」が用意されていて、一皿目、二皿目に、それぞれ何種類か選べるメニューがある。これに酒とコーヒーとデザートがついて15ユーロ。ビールを一杯追加。そのあと留守番の長女のために玩具屋でおみやげを買う。また2時間のドライブ。次女は玩具屋で少し泣いた(ほしいものがあったが買ってもらえなかった)ほかは、最後まで上機嫌だった。暗いうちに家を出て暗くなってから帰ってきた。長い一日だった。

09/14
スペインでの生活は次元の違う世界だ。本日は長女は幼稚園に行った。われわれは寝ていたのだが、本日は嫁さんの仕事があるという。嫁さんもピアニストでウェスカの音楽院の先生をしている。今日は担当を決める会議ということで時間は短いのだが、とにかく全員で出かけることになった。その前にヌエノ村に行くという。われわれは情報を与えられていないので、ただ耐えているだけだ。スペインでは子供が3人になると「大家族」と認定されて優遇措置があるのだいう。たとえば息子が買った3列ワゴン車の税金も安くなるのだという。ほかにもファミリーレストランが割引になるなどメリットがあるようだ。ということで村役場に証明書を貰いに行く。それから嫁さんがウェスカの音楽院に送り、次に長女を幼稚園に迎えにいく。それから嫁さんを迎えに行って、レストランへ。エスカルゴ料理が名物らしいが、それは特別注文として、各自が本日の定食を注文する。わたしがマカロニとソーセージを注文したら、ウェイターが何やら言っていた。子供みたいと言ったらしい。余計なお世話だ。
夕方、弁護士だという友人が遊びに来た。奥さんと小さな子供もいっしょ。言葉はよくわからないが、われわれも庭に出て談笑した。その友人たちが帰ったと思ったら、嫁さんの姉(サラゴサの看護師とは別の姉)と兄(次男)の一家と、父のホアンさんが来た。子供たちもいるのでものすごい喧騒になった。昼のレストランでハウスワインを頼み、息子は運転するのでほとんどわたし一人で飲んだのがきいてきた。涼しい風に吹かれ、グアラ山の眺めもよく、大勢のスペイン人たちもみな親戚なので、とても和やかで、のんびりとしている。やがて人々が、「アシタマニアーナ」と言って帰っていった。「明日がどうした」と思ったが、明日は週末なのでまたどこかで会うだろうという意味らしい。この住宅地には地の果てのようなところだが、息子のパソコンにはADSLがつながっている。ルーターがついていないのだが、モデムにルーター機能がついているというので、コードを引き抜いて持参した自分のパソコンにつなぐと、ちゃんとインターネットにつながった。メールも読めたのだが、送信機能が働かない。どうしても返信しなければならないメールが2通あったので、プロバイダーのホームページからメールを送った。少し手間はかかるが問題はない。毎日、寝酒にパリ空港で買ったウィスキーを飲んでいる。ぐっすり眠れる。わずかなあいまに、童話を書き始めた。

09/15
土曜日らしい。幼稚園も仕事もないので、子供たちもなかなか起きてこない。庭に出てドングリの木の下でパソコンを打つ。息子の家のある別荘地のような住宅地は、一区画が300坪くらいある。家はすべて同じ色で、茶とベージュのタイルのような外観。サイズは大小2種類しかなく、息子の家は小さいサイズなので庭は広い。芝生がしきつめられ、ドングリの木が何本か植わっている。そのドングリの木の下が気持のよい木陰になっている。椅子を持ち出して仕事をする。疲れると、ドングリの木の間に渡されたハンモックに寝る。ひんやりとした風が吹き渡っている。日本ではまだ残暑が続いていることと思われる。ここはここちよい秋風が吹いている。空気がひやっと乾燥していて、これ以上ないほどの爽やかさだ。スーパーに行き、買い物。ウイスキー一本買う。もってきたものがなくなりそうなので念のためのストック。空気が乾燥しているせいか、飲んだアルコールもどんどん蒸発して、あとに残らない感じだ。本日は嫁さんの手作りのディナー。ビール2缶飲む。その後、孫の長女といっしょにビデオを見る。季節はずれのサンタクロースの話。ディズニー映画のはずだが吹き替えのスペイン語なので何もわからない。質問すると孫が何やら説明してくれる。本日も来客あり。今日は挨拶に出ず、自分にわりあてられた部屋で仕事をする。古事記と日本書紀の文庫本を持参している。山幸彦の物語を自分なりにアレンジした童話を書いている。うまくいくかどうかはわからない。『星の王子さま』の翻訳を出した時の担当者に見てもらうつもりで、いちおう話は伝えてある。
09/16
日曜日。嫁さんの父ホアンさんのサラゴサの別荘に家族が集合。ホアンさんはもとはサラゴサの生まれで、公証人(公務員)としてウェスカに派遣されたことで、ウェスカを本拠とするようになった。それで別荘はそのままサラゴサの郊外にある。郊外といってもほとんどサラゴサの街の外周に接しているといってもいいところ。周囲には住宅地が迫っているのだが、そこに広大な畑と、農家のようなたたずまいの家がある。庭にはプールもあるのだが、長く使われていないようだ。畑も雑草がのびているのだが、果樹が植わっている。最近、わが息子が手伝って植えたようだ。息子は末娘の婿であるし、週休四日(出勤日が三日)という楽な仕事なので、けっこう手伝いをさせられているようだ。去年、奥さんをなくしたホアンさんにとっては、末娘が近くにいることがなぐさめなのだろう。
さてその別荘に、ホアンさんの長女と次女と三女が集まった。長男と次男がいないので、総勢の半分くらいのものだが、子供の数が3人なのは長女と三女(うちの嫁)なので、かなりの人数になった。17人か。去年の正月、われわれが次男夫婦をつれていった時は、まだホアン夫人も健在で、総勢が長男の奥さんのお母さんも含めて、28人になった。これだけの人数で年越しの鐘をきいたのだから、すごい集まりだった。本日の17人でもなかなかのものだ。スペインではまだ家族を大切にするという風習が残っている。それにしても、この家族は仲がよすぎるようにも思う。またもや「アシタマニアーナ」と言って別れる。
夜、子供たちを寝かしつける喧騒が二階で響いている間に、パソコンを開いて仕事をする。その時間にメールをとったりもする。関係する編集者には告げてあるので大きな問題はないが、それでもメールで返信しないといけない用もある。どういうわけか受信はできが発信ができないので、プロバイダーのホームページから発信することになる。それでも自分のパソコンを使えるのでまだましだ。実は三ヶ日の仕事場でも同じ状態になるのだが、妻のアドレスから発信するとうまくいく。まあとにかく、メールがつながるのでありがたい。

09/17
月曜日。本日は長男は休み。われわれがまだ寝ている間に、長女の幼稚園のために車が出ていった。次女だけが残されている。しばらく仕事をしていると二階で声あり。よくねてきげんがいい次女の相手をする。今月末で2歳になる次女は、とてもかわいい。アソボ、というのと、イヤ、それからワンワンがいえる。もちろんスペイン語はぺらぺらである。わたしにもようやく慣れてきて、いっしょに遊んでくれた。しかしその間、仕事ができない。急に空が曇って、雨が降ってきた。豪雨になるおそれがあるので雨戸を閉める。晴れ上がったころに長男たちが戻ってきた。キッシュとチョリソーふうのハムを食べたあと、嫁さんは仕事ということで、今度は長男と嫁さん、それに三女というメンバーで出かけていく。とりあえず生まれたばかりの三女は母乳が必要なので嫁さんからは切り離せない。ということで、時々、長女か次女がわれわれのもとに残る。次女は昼寝したので、長女だけ。この長女が、祖父母をなめきっていて、いろいろと命令する。わたしのことは、以前はジイチャンといっていたのだが、いまはジイサンと呼び捨てにする。昼食にビールを飲んだので部屋に入って仮眠。すぐ起きてリビングに行くと、長女はピターパンのビデオでおとなしくなっていた。やがて次女も目をさまして喧騒の中、長男と嫁さんが戻ってきた。夕方、ホアンさんが一人で訪ねてきた。アシタマニアーナといっていたが、ほんとにアシタにやってきた。夜、突然、ヒョウが降る。よく降るらしい。買ったばかりの新車をあわててガレージに入れる。下取りに出したシビックはヒョウでボコボコになっていた。幸い小粒のヒョウだったので問題はなかったが、量はすごかった。

09/18
長男はアラゴン州立高等音楽院というところの先生をしているのだが、ヨーロッパの教育機関は9月が年度のスタートで、まだ学期は始まっていない。入試や追試の関係で時々、仕事が入る。本日も入学試験の二次選考というのが入っていて、朝から仕事だという。ということでわたしと妻は、サラゴサまで車に乗せてもらった。朝8時にサラゴサ市内に放り出されるということだが、今回は子供はいないのでまったくの自由行動。ものすごく寒くて、とりあえず建物の中に入ろうということで、市場に行く。どの街でも、市場があればのぞいてみることにしている。バルセロナの市場はクリスマスの時期に行って大変なにぎわいだったが、サラゴサというのはスペインの第五の都市だから、まあ、その程度の感じだった。わたしは魚の目玉を見ると気分がわるくなるという性癖があって、尾頭つきの魚とか、シラスボシとかに弱いのだが、そのことを知っている次男は、わざと魚の目玉をわたしの目の前に突き出すことがある。妻もそういうところがあって、あ、あれはすごい、と誘導されて、そちらを見ると、羊の目玉だけが山盛りになっていた。その場に昏倒しそうな衝撃。わたしは目が怖い。人間の目もこわいので、人と話をする時にもどうしても伏し目がちになってしまう。
サラゴサの最大の名所、マリーピラール寺院に入る。何度も来たことのある寺院だが、朝の説教をやっていて、少年聖歌隊とパイプオルガンの演奏が聴けた。寺院の向かいにインフォメーションがあり、妻が何やら相談していた。妻はかなりスペイン語ができるようだ。わたしは日本語の会話もちゃんとできないようなところがあるので、外国語などはとんでもない。市内観光の2階建てバスがあるというので、乗り場に行く。歴史コースと万博コースがあるという。来年、サラゴサ万博が開かれるのだが、これはテーマ博で、つくば科学万博とか、大阪の花博みたいなもの。以前に開かれたセビリア万博とは規模が違う。わたしはいま堺屋太一伝の準備をしているので、万博には詳しくなっている。今回のサラゴサ万博は水がテーマだという。サラゴサの市内をエブロ川という大きな川が流れているのだが、これが地中海に面したバレンシアまで流れていく。スペインの全体は砂漠に等しい乾燥地域なのだが、ピレネーの雪解け水が流れるアラゴン州(州都がサラゴサ/昔はアラゴンという単独の国家だった)は水には恵まれている。ところが、リゾート地で外貨収入が得られるバレンシアの水資源でもあるので、アラゴン州の農家は取水制限で困っている。スペインはあまり知られていないが合衆国で、州の独立性が強い。だから水の問題は重要だ。地中海に面したカタルーニャ地方は、言語もカタラン語で、言葉も違う。だから、アラゴンの人は、アラゴンだけが自分の国だと考えている。スペインのサッカーはレベルが高いが、それはマドリッドとかバルセロナとかセビージャとか、都市単位のチームがチャンピオンズリーグなどで活躍するだけで、ワールドカップやオリンピックといった、国単位の大会では、あまり活躍しない。国という概念が希薄だからだといわれている。そもそもスペインには国歌がない。オリンピックやF1で国旗掲揚の時に曲が流れるけれども、あれには歌詞がないのだ。アラゴンの人は、アラゴンが国で、その周囲にスペイン語圏があると考えている。だから、マドリッドのあるカスティージャも、バルセロナのあるカタルーニャも外国で、いちおうスペイン語圏なので、アルゼンチンやチリやメキシコと同じような、仲間だという意識はあるのだが、スペインという国家に対しては、特別の思いはないようなのだ。
で、わたしも妻も、建設途上の万博会場を見ても仕方がないので、歴史コースのバスに乗る。嫁さんのお姉さんがサラゴサの中心地に住んでいて、その周囲は何度も散歩したので、よく知っているところをバスが走る。それもけっこう面白かった。あとはデパートの周囲をのんびりと散歩する。デパートが中心となるのは、とりあえずそこにはトイレがある。スペインだけでなく、ヨーロッパには公共のトイレがない。日本だと、わたしの自宅の周囲の散歩コースにも、いたるところに公共トイレがある。実はそのことで、日本人は、水と空気とトイレはどこにでもあると楽観しているところがある。その結果、トイレに行く回数が多く、膀胱がきたえられていないのだ。ヨーロッパの人はそうではない。トイレはどこにでもあるものではなく、あっても有料のことが多いので、外出中にトイレに行く機会が少ない。とくにスペインは、昼ご飯は自宅に帰って食べる人が多い。夕方、どこかに出かけることがあっても、自宅から歩いて行ける範囲に限られる。ということで、自宅から出て自宅に帰るまで、トイレに行かなくても平気である。我慢していれば、膀胱は肥大する。スペイン人の膀胱は確実に大きい。わたしたちはよく、バルセロナからウエスカへのバスに乗る。4時間かかる。高速道路の途中のパーキングエリアで、一回、休憩がある。ところが何かの拍子に高速道路が工事中だったりすると、タダの道を通ることがあり、そり場合は途中休憩なしである。4時間、トイレを我慢できる人でないと、このバスには乗れないのだ。ということで、わたしたちもスペインに行く時は、それなりの覚悟を固めているのだが、街歩きをする時は、デパートには無料トイレがあるので、そこからあまり離れないようにして散歩するのが得策である。
午前中の仕事を終えた息子と合流して、郊外にあるショッピングセンターへ。わたしたちも仕事場のある浜松の志都呂という巨大ショッピングセンターによく行くので、モールの規模には驚かないが、入っているショップがなかなか面白いので、のんびりと散歩をする。時間をかけて昼食。スペインにいると、食事は一日に一食、お昼ご飯だけということになる。この前、マカロニを注文してばかにされたので、パエージャと羊肉を頼む。スペインでは肉は羊に限る。牛肉は和牛が最高だし、ブタはハムになることが多い。逆に日本の羊は、としをくった羊をさばくこともあって、とてつもなくまずいことがある。スペインでは消費量が多いので、ごくふつうに、若い羊が出てくるので、日本の羊とは比べものにならないくらい、羊はおいしい。
息子は夕方も仕事がある。また妻と二人きりで街歩き。路上のテラスでアイスクリームを食べていると息子から電話。仕事が終わったのでお茶でもしようということになり、車で拾ってもらって、さっきのショッピングセンターへ行く。ハーゲンダッツの店で息子はアイスクリームを食べる。わたしたちはアイスクリームを食べたばかり。妻は紅茶。わたしはビール。ハーゲンダッツでもマクドナルドでも、必ずビールはある。日本のショッピングセンターで、ビールをゲットするのは、大変な苦労だ。のんびとの息子と話す。ふだんは嫁さんがいるので、つねに通訳をしながらの会話になる。息子と日本語だけで話せる数少ないチャンスだ。息子は嫁さんと3人の娘から解放されて、少し表情がゆるんでいる。仕事に出ている間は、自由になれる。息子にとっては、仕事が癒しなのだ。気の毒なことに、授業が始まっても、週のうち出勤が3日だけという、恵まれた勤務状況がアダとなって、ラクができる仕事の日が週に3日しかない。あとの4日は、子育てに奉仕しなければならないのだ、そう考えてみると、日本のサラリーマンは恵まれているのかもしれない。

09/19
本日は、スペインですごす最終日。のんびりしたいところだが、ホアンさんからディナーの招待があった。幼稚園に長女を迎えにいってから、ホアンさんと合流。バールでタパを軽くつまんでからレストランへ。これがスペイン方式。レベルの高い店で、なかなかいい料理が出てきた。わたしはピーマンのツナサラダ詰めと、イベリコブタを頼む。その後、ウエスカの街を散歩。けっこう歩いた。こうして10日間のスペイン滞在が終わる。妻は一ヶ月スペインにいた。頭がスペインになっている。スペイン人の困るところは、計画性がないこと。逆にいえば自由だ。気の向くままに生きている。嫁さんはスペイン人だし、息子ももはやスペイン人になりきっている。わたしと妻は日本人なので、計画のない生活には耐えられない。ということで、ストレスの多い日々であった。何だかよくわからないままに、ぶらぶらしているということが多かった。そのあいまを見て、必死にパソコンを叩いている自分が恥ずかしいようでもあったが、わたしは日本が好きだし、日本的な仕事仕事仕事の世界がけっこう好きでもある。ということで、明日は日本に向けて出発できるのだが、スペインでの10日間、はっきり言って、寒かった。だが、ネットで情報を見ると、東京は連日、30度をこえている。今日のウエスカは最高気温が25度だが、それは瞬間で、午前中や夕方は20度くらいだった。今日は上着を着て出かけたので寒い思いをすることはなかった。

09/20
さて、あとは帰るだけだ。ウェスカ発午前7時45分発のAVE(新幹線)でマドリッドに向かう。サラゴサ郊外のこの都市は、言ってみれば、柏か松戸くらいの街で、そこから大阪行きの新幹線の始発が出るようなもので、一日一本とはいえ、嘘だろうと思う。実際に、一両だけの電車が一時間に一本もない駅に、14両編成の新幹線が実際にスタンバイしているのを見ると、夢ではないことが実感される。来る時にもこれに乗ってきたのだが、着いた時は夜だった。今回は夜明けの黎明の中に、車両が鮮やかに浮かび上がっている。一等車に乗り込む。通路を挟んで一席と二席の列があるだけ。この他に特等車もあるらしい。サラゴサを通りすぎてから朝食が配られる。さすがに朝は酒は出なかった。2時間半でマドリッド着。時間があるので市内観光でもしたいところだが、わたしも妻も疲れているのでまっすぐに空港に向かう。出発まで5時間もある。ショップでもあるかと思ったが、サラといった有名店があるのはゲートの中のようで、食事もろくにできない。搭乗券を発行してもらわないとゲートの中に入れないが、アムステルダムからの乗り継ぎがあるので、すぐには発行してもらえない。妻が何度も交渉して、ようやく3時間前に発行してもらえた。ゲートをくぐると、ショップがある。これならあと3時間は、問題ない。プラド美術館のグッズの店があったので、自分のスーブニールを買う。軽く食事をし、缶ビール2本飲む。アムステルダムまではイベリア航空で、ここはケチな会社で、フライト中の飲み物はすべて有料である。だから先にアルコールを仕込んで、乗ったらすぐに仮眠したいと思ったのだが、結局、少しうとうととしただけ。
アムステルダムのスキポール空港は、わたしは初めてだが、電車で空港の地下の駅を通ったことがある。妻は利用したことがあって、ここがいちばんわかりやすいと言っていた。確かに、広大な面積なのでかなり歩かされるが、案内所、パスポートチェック、荷物検査の段取りが合理的にできている。往路のパリ・ド・ゴールでは案内所のおばさんの的確な指示に救われたので、今回も案内所で確認してもらうが、テレビ画面の表示と同じだった。この空港は搭乗ゲートの直前に荷物検査場があるので、ゲートが直前に変更になることはないようだ。距離はあるがわかりやすいというのも、そういうところだろう。ここからは日航で、日本語がとびかう世界だ。いままでスペイン語ばかりの世界にいたので、日本語が懐かしいかというとそうではなく、東京にいて街で大阪弁を聞いた時のような、近親憎悪のようなものを感じる。あとは機内食と酒。そして11時間という時間の経過に耐えるだけだ。

09/21
飛行機は無事に成田に到着。うわっ、暑い。予想していたこととはいえ、湿度たっぷりの熱した空気は、地獄にとびこんだ感じだ。わたしはスペインからなのでティーシャツに上着をひっかけただけだが、アムステルダムから乗り込んだ人々はセーターを着たりしているので、日本の暑さに衝撃を受けたようだ。わたしは10日だけだが、妻は一ヶ月、日本を留守にしていた。その間に組閣があり、それが突然、首相の辞任で、わけがわからない感じだが、猛暑だけは変わりがない。巨人の試合結果は次男から毎日メールが届いていた。次男は巨人ファン、嫁さんは阪神ファンで、毎日家庭が緊張に満ちているのではないかと思う。しかも住んでいるのが中日ファンのテリトリーだ。自宅に帰る。もう夕方になっているので、やや涼しい風が吹いている。メールはスペインでもチェックできたが、郵便物が大量にある。整理するだけで夜になる。熱い風呂に入る。息子の家にはいろんなシャワーが出る面白い装置があるのだが、やはり風呂は日本式に限る。日本でもヨーロッパ時間で生活しているので時差ボケはない。このまま夜中も仕事をして明け方に眠ればいい。が、仕事をする気にはなれない。この10日間に木曜が2回あった。木曜夜中の「プリズン・プレイク」という番組を毎週見ているので録画してある。実はビデオの操作は得意ではない。うまく録れているか心配だったが、ちゃんと映っていた。最初に、バレーボール中継延長のため10分遅れ、などという表示が出たが、それを見越して余分に録画してある。日本のチーズと日本のビールを飲みながら録画を見る。やれやれ、日本に帰ってきた。孫3人は可愛いが、日本で仕事をする日常をわたしは何よりも愛している。

09/22
「日蓮」の見本が届いている。「空海」とも共通した金の題字で、迫力のある日蓮の肖像。帯のコピーもいい。編集者の力作である。これは一種の青春小説なので、いかに生きるべきかの指針として、仏教に関心のない人にも読んでもらいたいのだが、とりあえずは日蓮と法華経に興味のある人にはアピールする装丁だと思う。
ふだんからヨーロッパ時間で生活しているので、時差ボケはないはずだが、この2週間、ふだんとまったく違う生活をしていたので、仕事ボケしている。曜日の感覚がない。昨日、夕方に自宅にたどりついて、膨大な量の郵便物を前にして、ぼうぜんとした。早急に対処しなければならないものも多く、とりあえず緊急のものから片付けたのだが、頭が回っていない。本日も書類を片付け、疲れ果てて気分転換に散歩に出て、自宅に帰り着き、妻と三宿のうどん屋に向かっている途中で、本日が土曜日だということに気づいた。コーラスの練習日で、スペイン滞在中にもメールで確認して、頭にもインプットしていたのだが、曜日という感覚が欠落していた。これはヤバイ。来週は重要なスケジュールがいくつかあるので、もっと緊張しないといけない。なかなか仕事に集中できなかったが、明け方、童話の続きを書き始めた。結局、最初から全部書き直すことにして、修正を続けている。

09/23
日曜日。巨人、大逆転で首位。童話を少し。前から頼まれていたクリスマスキャロルの訳詞。締切はずっと先だが次の小説がスタートすると忘れそうなので、本日、全部片付ける。もとの詩と下訳の資料が、書類の山に埋もれていた。山の上から、要るもの、要らないものと分類していくと、途中で目的の資料を発見。作業はそこで打ち切ったが、大量のゴミが出た。訳詞というのは、もとのテキストがあるので、それに従って作業を進めればいいだけだが、会場でプロジェクターで投射するので、16字の2行という制約がある。一定の時間、投射をするためには、コンパクトに訳さなければならない。漢字を使えばすむことだが、ベツレヘムなどという地名が出てくると、他の部分にしわよせがくる。イマニュエルというのはキリスト教に詳しくない人には意味不明だろうから、「人の姿の神」と訳す。イエスのことである。というようなことで1日がおわった。
来週は「夫婦の掟」のゲラが届く。とりあえずこれが最優先。次が童話。並行して「西行」の資料を読み、来月からスタートする。堺屋太一伝は、あと一回、インタビューの機会が得られそうなので、そのあとになる。半分くらいのところまで書いてあるので、それほど時間はかからない。多忙な人なのでスケジュール調整に時間がかかり、実際にインタビューできてもテープ起こしに時間がかかるだろうから、作業はかなり先になる。「西行」が完成している時期かもしれない。その後、新書一冊。その次が「親鸞」ということになる。「親鸞」の資料も並行して読んでいる。これで来年のスケジュールは満杯だ。フリーターとしては、来年の仕事が埋まっているというのは安心であるが、自由度がない。新書の企画も練らないといけない。もう一つ、来月、長男が長女と義父をつれて日本に来る。この時期も調子がくるうだろう。いろいろと大変である。

09/24
3連休の3日目だが、金曜までスペイン・モードだったから、そのまま休みが続いている感じだ。明日からは、仕事モードにしないといけない。

09/25
火曜日。いよいよ仕事が始まった。本日は講談社の担当者がゲラを届けにくる。いかなり仕事モードに入らないといけない。ただ気持ちの準備ができていないのと、童話の方をキリのいいところまでやりたいので、しばらくは手をつけない。

09/26
教材関係の会議。これは著作権責任者としての仕事で一種のボランティアだが、多くの作家の収入にも関わることなので重要である。著作権モードの仕事も久しぶりなので頭がすぐにも回転しない。明日も著作権の会議なので、少しずつ回転させないといけない。巨人、奇跡の逆転勝ち。マジックはまだ中日だが、残り7試合でM7だから、一つも負けられない状態だ。巨人は残り2試合なので、2つとも勝つ可能性は大いにある。

09/27
文化庁小委員会。本日は何回も発言した。発言した数だけお金をくれるわけではない。もともとボランティア活動だから、黙っていてもいいのだが、せっかく暑さがぶりかえした中を出かけたのだから、一回くらいは発言しておきたい。ようやく議論が煮詰まってきたので、これからは議論を深め話を発展させる必要があるだろう。この種の委員会は、各自が勝手にしゃべって報告書に各論並記ということになりがちなのだが、わたしはつねに著作権の問題は利用者と著作者の双方によりよきポイントが必ずあると考えている。ただ委員の中には、言いたいことを言うだけの人もいるので、なかなか議論がかみあわない。まあ、シンポジウムではないので、相手を批判することのないように気遣ってはいるのだが。「日蓮」はすでに本になっているので、半年前にわたしに憑依していた日蓮はきれいに抜けている。だからことさらに折伏しようとは思わない。
今日は巨人の試合はない。中日・阪神戦を見る。もちろん阪神を応援するのだが、ふがいなく負けてしまった。わたしがスペインにいた時に、巨人に連勝した時の勢いはどこへいったのか。中日、残り6試合でM6。一つでも負ければ巨人にマジックが出る。明日の阪神に期待したい。

09/28
本日は公用なし。気温32度。真夏日がぶりかえしたが、予報されていたことなので、すべての窓を閉めきって外気を遮断。涼しい昨日の空気の中ですごした。日が暮れてから散歩。昨日から妻が実家に帰っているので(けんかしたわけではない。義父母の様子を見に行っただけ)、時間が自由になる。いつも妻が寝てから飲み始めるのだが、妻がいないと飲み始めの時間が早くなるので要注意。祝杯をあげずにはいられない。阪神、突如がんばって、中日に辛勝した。これで巨人にマジック2が出た。2戦2勝しなければならないのだが、とにかく自力優勝のチャンスがあるというのはすごい。中日はもう一つくらい負けるだろうから、あと一つ勝てばいいのではないか。

09/29
土曜日。寒い。昨日の32度から、いきなり冬だ。どうなっているんだ。

09/30
日曜日。本日はめじろ台男声合唱団のパート練習。指導していただいている先生の家。いつもは北野の公民館で集まるのだが、今回はめじろ台。この街に、8年間暮らした。20年以上も前のことなので、記憶がうすれているけれども、懐かしい。先生の家、こんなに遠かったかなあと思いながら、雨の中を歩いた。
暑い夏もようやく終わった。このノートの6月から9月ぶんは、とくに中心となるテーマがなかった。堺屋太一伝はもう一度取材ができるというので、ペンディングにしてあるが、半分くらいは草稿ができている。追加取材で一気に仕上げたい。結局、本として完成したのは「夫婦の掟熟年版」だけだが、これは以前の本の焼き直しなので、この期間の成果とはいえない。まあ、次の小説「西行」と「親鸞」の準備期間ととらえておきたい。引き続き、童話を書きながら、小説の構想を練ることになるが、とりあえず次の月は「西行」のノートということにする。
ここまでのノートに「暑い夏」としたのは、スペインに行くことが最大のイベントになると覚悟していたからで、スペインは涼しかったのだが、気分としては暑かった。長男の家に三人目の女の子が誕生した。幸福だが、しばらくは大変だろう。しかし娘たちが大きくなれば、とても楽しい家庭になりそうだ。そこまで、こちらが生きていられるかはわからないが、たぶん生きているだろうと思う。楽しみにしたい。

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