三田誠広(みたまさひろ)著作リスト
最新作のお知らせ

1977
小説「僕って何」河出書房新社(河出文庫)(角川文庫)

小説「赤ん坊の生まれない日」河出書房新社(河出文庫)

1978
小説「Mの世界」河出書房新社(河出文庫)

対談「愛って何」河出書房新社

1979

小説「龍をみたか」朝日新聞社(角川文庫)

随筆「僕の赤ちゃんたち」主婦の友社(集英社文庫)

随筆「僕のうちあけ話」集英社(集英社文庫)

対談「素晴らしき星空の饗宴」(藤井旭氏との対談)大和書房

1980

小説「高校時代」(角川文庫)(河出文庫)

小説「やがて笛が鳴り、僕らの青春は終わる」角川書店(角川文庫)

1981

小説「野辺送りの唄」文藝春秋

小説「エロイカ変奏曲」角川書店(角川文庫)

1982

小説「空は終日曇らず」集英社(集英社文庫)

評論「青春のアーガマ」河出書房新社

随筆「都の西北」(河出文庫)

1983

小説「日常」角川書店(改題「トマトケチャップの青春」集英社文庫)

1984

小説「漂流記1972」河出書房新社(河出文庫)

随筆「すずめ台つれづれ日記」光文社

評論「新しい書き手はどこにいるか」河出書房新社

1985

小説「命」河出書房新社

小説「考えるウォークマン」角川書店

随筆「すずめ台駅前情報局」(光文社文庫)

写文「仏陀の風景」講談社

評論「死のアポリア」情報センター出版局

1988
小説「デイドリーム・ビリーバー」トレヴィル

小説「愛の夢」中央公論社

随筆「パパは塾長さん」河出書房新社

1989

評論「英雄伝説・イエスと釈迦」講談社

1990

小説「いちご同盟」河出書房新社(集英社文庫)(河出文庫)

1991

小説「ペトロスの青い影」集英社(集英社文庫)

小説「チューブワーム幻想」広済堂出版

小説「白い丘」中央公論社

1992

小説「高田馬場ラブソング」実業之日本社(集英社文庫)
小説「地に火を放つ者/双児のトマスによる第五の福音」トレヴィル

1993

小説「ジャッキーペイパーをさがして」学習研究社

小説「霧隠れ雲隠れ」広済堂出版(広済堂文庫)

随筆「パパは塾長さん」(増補改訂版)河出書房新社

1994

小説「愛の行方」河出書房新社

随筆「吾輩はハスキーである」河出書房新社(河出文庫)

講義「天気の好い日は小説を書こう」朝日ソノラマ(集英社文庫)

対談「息子の教育」(西部邁氏との対談)プレジデント社

小説「鹿の王 菩薩本生譚」河出書房新社

1995

評論「大学時代をいかに生きるか」光文社カッパブックス

小説「春のソナタ」集英社(集英社文庫)

小説「蒼竜館の秘密」実業之日本社

随筆「父親学入門」集英社(集英社文庫)

講義「深くておいしい小説の書き方」朝日ソノラマ(集英社文庫)

1996

随筆「十七歳で考えたこと」河出書房新社

童話「キャロラインの星」河出書房新社

講義「書く前に読もう超明解文学史」朝日ソノラマ(集英社文庫)

1997

小説「迷宮のラビア」河出書房新社

評論「聖書の謎を解く」文春ネスコ(PHP文庫)

1998

小説「恋する家族」読売新聞社

鼎談「大鼎談」朝日ソノラマ

小説「遮那王伝説」実業之日本社

随筆「ぼくのリビングルーム」KSS

評論「般若心経の謎を解く」文春ネスコ(PHP文庫)

1999

小説「天翔ける女帝/孝謙天皇」廣済堂出版(学研M文庫)

小説「炎の女帝/持統天皇」廣済堂出版(学研M文庫)

随筆「夫婦の掟/妻に嫌われない方法」講談社

評論「アインシュタインの謎を解く」文春ネスコ(PHP文庫)

2000

小説「碧玉の女帝/推古天皇」廣済堂出版(学研M文庫)

随筆「中年って何」光文社

小説「清盛」集英社(PHP文芸文庫・予定)

評論「星の王子さまの恋愛論」日経新聞社(集英社文庫)

2001

評論「三田誠広の法華経入門」佼成出版

小説「ウェスカの結婚式」河出書房新社

小説「天神/菅原道真」(学研M文庫)

2002

評論「宇宙の始まりの小さな卵」文春ネスコ

小説「新アスカ伝説@/ツヌノオオキミ角王」学研歴史群像新書

小説「新アスカ伝説A/イクメノオオキミ活目王」学研歴史群像新書

小説「新アスカ伝説B/ヤマトタケル倭建」学研歴史群像新書

「夢将軍/頼朝」集英社

2003

小説「蓼科高原の殺人」(祥伝社文庫)

小説「釈迦と維摩/小説維摩経」作品社

評論「わたしの十牛図」佼成出版社

評論「図書館への私の提言」勁草書房

2004

評論「こころに効く小説の書き方」光文社

小説「桓武天皇/平安の覇王」作品社

評論「団塊老人」(新潮新書)

小説「犬との別れ」バジリコ

評論「ユダの謎キリストの謎」(祥伝社NONブックス)

2005

評論「天才科学者たちの奇跡」(PHP文庫)

小説「空海」作品社

2006

小説「永遠の放課後」(集英社文庫)

評論「父親が教えるツルカメ算」(新潮新書)

翻訳「星の王子さま」(講談社青い鳥文庫)

2007

評論「謎の空海」河出書房新社

評論「ダ・ヴィンチの謎、ニュートンの奇跡」(祥伝社新書)

評論「はじめての宗教 キリストと釈迦」(講談社+α文庫)

対談「団塊−再生世代の底力」(岳真也氏との共著)心交社

小説「日蓮」作品社

評論「夫婦って何? おふたり様の老後」(講談社+α新書)

2008

評論「プロを目指す文章術」PHP研究所

小説「西行 月に恋する」河出書房新社

2009

児童文学「海の王子」(講談社青い鳥文庫)

評論「原子への不思議な旅」(サイエンス・アイ新書)

小説「堺屋太一の青春と70年万博」(出版文化社)

評論「マルクスの逆襲」(集英社新書)

小説「新釈罪と罰 スヴィドリガイロフの死」(作品社)

2010

評論「仏教って何?」(講談社+α新書)

小説「阿修羅の西行」(河出書房新社)

児童文学「青い目の王子」(講談社)

小説「なりひらの恋」(PHP研究所)

小説「新釈白痴 書かれざる物語」(作品社)

2011

評論「平安朝の悪女たち」(PHP研究所)

評論「哲学で解くニッポンの難問」(講談社)

小説「道鏡 悪業は仏道の精華なり」(河出書房新社)

評論「実存から構造へ 20世紀文学を読み解く」(集英社新書)


1997以降の作品の詳細については、「最新作のお知らせ」を参照してください。

最新作のお知らせ


ホームページに戻る


「僕って何」

1977年夏、第77回芥川賞を受賞した作品です。
主人公の「僕」は大学の新入生。時代の設定は60年代末。 いわゆる「全共闘」運動が盛んだった頃です。
「僕」はたちまち学生運動に巻き込まれるのですが、そこで 年上の魅力的な女子学生レイコに出会います。
恋愛小説としても読める青春小説ですが、 時代の風俗をしっかりと描いているため、 60年代末という歴史的にもきわめて特徴的な時代の様子が、 リアルに読者の前に展開されます。
その意味では、この時代の代表作といってもよく、この本は ベストセラーになりました。
当時は「○○って何?」という言い方が流行語になったりもしました。
もう一つ重要なことは、それまでにあった学生運動を題材にした作品は 社会主義を絶対的な正義として、正義のために闘おうとしながら 結局は挫折してしまう人物をセンチメンタルに描いたものが多かったのですが、 この「僕って何」という作品は、作品の中に絶対的な価値基準を置かず、 学生運動に批判的な視点をもっています。
正確に言うと、ソ連型の社会主義に対する批判、 当時の学生運動の組織に対する批判が作品の中に取り込まれています。 また組織に対する批判から始まった全共闘運動が結局は一つの組織になって しまうという矛盾点にも批判の目を向けています。
というわけで、一見、さわやかな恋愛小説と見え、 テンポよくストーリーが展開していくユーモア小説とも見えるこの作品は、 実は政治的な意図をもったフクザツな作品だということがわかります。
この作品は筆者の学生時代に草稿が出来ていたのですが、就職して 業界誌記者やPR誌編集者などをしていた4年ほどの間に、 何度も書き直したものです。
この作品がベストセラーになったことにより、プロの作家として 仕事を続けることができるようになりました。その意味でも 筆者にとっては重要な作品です。

「Mの世界」

高校を登校拒否している期間に書いた処女作。
意識、自我、実存といったテーマを素朴に追求した観念小説です。
何しろ十七歳の時の作品ですから、小説というスタイルが確立していない実験小説ですが、 ある種の密度はあります。登校拒否という切実な体験ずストレートに反映していて、 その意味ではスリリングな作品です。
埴谷雄高の短編集「虚空」とサルトルの「嘔吐」の明らかな影響が見られます。 まあ、十七歳の孤独な少年が、哲学書を読み、 それなりに自分で哲学の真似事をしてノートに書き記したもの、と考えてください。
小説を書き始める出発点で、観念的な哲学小説を書いたということは、 その後の三田誠広の道程を決定することになったといえるでしょう。
その意味では重要な作品です。
この作品は当時、雑誌『文芸』で募集していた「学生小説コンクール」の佳作となり、誌上に掲載されました。
実験的な奇妙なスタイルであったことと、作者が高校生だということで、けっこう注目されました。
また、『文芸』編集部ともつながりができ、埴谷雄高氏宅を訪問したり、文壇バーに連れていってもらったりしました。
大学に入った後も編集部に習作を届けてアドバイスをもらっていたのですが、 大学在学中に『文芸』に掲載された「体操教師」と、芥川賞受賞直後に書いた「二十七歳」が併録されています。
処女作から「二十七歳」まで(書いたのは二十九歳の時です)、十二年の年月が経過しています。
まさに苦節十年です。作者にとっては懐かしい作品集ですが、残念ながら文庫は品切れ状態のようです。

「デイドリーム・ビリーバー」

ライフワークともいえる宗教小説の第一弾です。郊外に新設された山の中のクレーターのような大学キャンパスを舞台に、
声を失った主人公と三人の仲間、それに神秘的なコビトを加えたメンバーが、
大学を支配しようとしている宗教教団と闘う物語です。
この宗教教団をいかに魅力的に描くかがポイントで、とくに教祖をスーパーヒーローに仕立て上げました。
カルト集団の恐怖と魅力を描いた作品で、時代を先取りした予言的な作品といっていいでしょう。
マドンナと呼ばれる謎めいたヒロインも出てきます。物語のクラスマックスは集団結婚式のセレモニーで、
主人公と仲間たちが、マドンナを奪還するためにスリリングな闘いを展開します。
また、主人公たちは地球外生物との交信を目指して、装置をセットするのですが、
やがてその装置にメッセージが書き込まれます。この部分も作品の山となっていますが、
インターネットなどというものが想像もできなかった十年以上前に書かれた作品であることを考えれば、
この点でも時代を先取りした作品といっていいでしょう。
SFふうの仕掛けを取り込んだ作品の宿命ですが、現在の時点から読み返すと、コンピュータの扱い方などに、ヘンテコな点も多々あるのですが、
パソコンの能力がまだ極端に劣っていて、「端末」としてしか機能しなかった時代の物語ですから、
歴史小説に接するようなつもりで読んでいただければ幸いです。
なお、この大学キャンパスの四方には、黒、白、赤、青の建物が配置されていますが、これは古代中国の宇宙観からとったもので、
相撲中継の土俵の上の房を見てとっさに思いついたものではありません。
この作品に登場するコビトは、イエス・キリストを模したもので、次に書かれる「地に火を放つ者」への橋渡しとなる作品でもあります。
また、のちに書かれる「迷宮のラビア」は、当初はこの作品の続編として構想されていたものです。

「地に火を放つ者/双児のトマスによる第五の福音」

宗教小説の第二弾です。これはイエス・キリストを描いた作品ですが、「現代のキリスト」というコンセプトではなく、二千年前のイエスそのものを描いています。
そのため基本的には福音書どおりに物語は進行するのですが、語り手として、十二使徒の一人、双児のトマスを設定しているところから、近代小説的なリアリズムで書かれています。
ただし、この作品のイエスは、空を飛びます。人が空を飛ぶことが不自然でないように、そこに至るプロセスにくふうをこらしたつもりです。
またこの作品のイエスは、悪魔的です。反抗的であり、反社会的な教祖という風貌をもっています。
キリスト教徒の読者にとっては、ショッキングなイメージかもしれませんが、実際のイエスはこんなふうではなかったかと、作者は考えています。
神の子としてのイエスではなく、苦悩する人間としてのイエスを描きました。
また十二使徒の全員を、個性的に、存在感をもって描いたところも、この作品の重要なポイントです。
読者はこの十二使徒の中の誰から、自分を発見し、シンパシーをもって作品の世界の中に入っていけるのではないかと思います。
イエスの姿を、このようにリアルに描いた作品は、外国文学の中にも皆無ではないかと自負しています。
いまのところ、三田誠広の代表作といっていい作品です。

「鹿の王」

『海燕』に断続的に連載した短篇連作。
基本的に釈迦の前生譚をリライトしたものだが、仕掛けがある。
第一話の「鹿の王」を導入部として、すべての前生譚が総合的にまとめられるとともに、
「虎」ではカミュの「シジフォスの神話」を下敷きにして、前生譚が無限の繰り返しであることが示唆される。
「鏡面王」は悲劇の中に置かれた喜劇で、作品全体を相対化するとともに、生真面目に書くことの暴力性に遊びを挿入して圧力を逃がしている。
最後の直前に置かれた章は前生譚ではなく釈迦自身の悟りの物語であり、最後の章は、釈迦について作者(三田誠広)が書くことの意味を問いかけている。
その意味では、この最後の章は自己言及的であり、小説の小説になっている。
当初はボルヘスの短篇集のような、羅列することの効果を想定して書き始めたのだが、書いているうちにすべての短篇が有機的に結合し、
短篇連作ではなく巧妙に組み合わされた一つの作品として成立しているはずである。
ふつうの長篇とは異なった、アンチロマンの一種であり、三田誠広の作品としては、近代小説の枠組を破った最初の作品である。

「迷宮のラビア」「聖書の謎を解く」の反響など

とりあえず知人、友人、評論家等に本を送った反響が返ってきた。
「改行のない文体」「超難解」「前衛文学ふう」という、パッと見た印象だけで、読むのをやめてしまった人が多いようだ。
直後に「聖書の謎を解く」が送られてきて、こちらの方は講義録と同様、話し言葉で書かれているため、すぐに読めて面白かった、という声が多い。
一冊読んだので義務を果たしたと思い、「迷宮」の方は読まずにすまそう、といった雰囲気だ。
ちゃんと読んでくれた人は、スケールが大きな着想なのに、後半、簡単に終わってしまって残念、という声もあった。
作者から一言。このテーマをリアリズムで書くと、ドストエフスキー級の超大作になる。
そんな厚い本は誰も読んでくれないだろうし、こちらも書く気はない。
『文芸』に6回の連載と最初から決めてスタートした作品で、60枚ずつの約束だったのを、 最終回だけ100枚に延長してもらったのが、ボリュームとしてのキャパシティーだろう。
合計400枚。最初からその分量に納めるための工夫として、主人公を記憶喪失にして、
記憶の断片をアンチロマンふうに並べていくというスタイルをとった。
その記憶の断片が、ジグソーパズルのピースを合わせるように、少しずつ全体像が見えてくるという構成になっているのだが、
全体がクリアーに、俯瞰図的に見えるようにするためには、長大なスペースが必要だ。
しかし断片を並べるというスタイルをとっているため、全体のおぼろな輪郭が見えたところで、
主人公の記憶がプッツンと途切れて、作品も終わってしまう、ということで、話を打ち切ることが可能だ。
そのような終わり方が見えていたから、連載をスタートできたといっていい。
というわけで、この作品は、当初の予定どおりに終了できた。予定外の逸脱としては、
最終回を書いている時に、目の前にテレビで「新世紀エヴァンゲリオン」の再放送をやっていたため、
当初は「ゴジラ」などの怪獣もののシーンで締めくくるはずだった「ハルマゲドン」のイメージが、少し未来的になったかな、という程度だ。
読者からの質問01
作品の中に登場するアダルトビデオの監督、ムラカミ監督というのは、村上龍自身、または村上龍の作品の登場人物のパロディーなのか。
ハズレです。きみたちはSMビデオの巨匠、雪村春樹監督を知らないのか。
当初は雪村監督をモデルとして、「ハルキ監督」としていたのだが、それではあまりにストレートなので、「ムラカミ監督」に変更したのである。
読者からの質問02
「迷宮のラビア」のラビアというのは、どういう意味ですか。
そーんなことを、大声できかないでください。
これは解剖学用語です。お医者さんにきいてください。
いやいや、お医者さんにきくのも恥ずかしいですから、こちらが答えましょう。
ラビアというのはラテン語で「唇」という意味です。
しかし英語でこの言葉を用いる時は、産婦人科の専門分野で、人間の体のある部分の名称となります。
当然、女性にしかそなわっていない器官で、メジャーなものとマイナーなものがあります。
「迷宮(ラビリンス)」と頭韻を合わせるために、「ラビ」で始まる言葉を探しているうちに発見しました。
なお、ラビアという言葉は、アダルトビデオ業界では常識です。
読者からの質問03
「迷宮」に登場する「教祖」は大変に魅力的ですが、途中から影がうすくなっていくように感じます。
作者の力が尽きたのでしょうか。
そのとおりです。というか、教祖が主人公になってしまうと、ここに書いた教団の運動を、作者が全肯定することになってしまいます。
そこで前半はひたすらカッコよかった教祖の人間的な側面を描く必要に迫られるのですが、
前半の教祖があまりにも神々しいので、突然、彼も愚かなただの人間でした、というふうには描けない。
そこでしだいに影がうすくなり、いつの間にか消えてしまう、という手法をとったのです。まあ、手法というほどのこともない、苦しまぎれの算段ではあるのですが。
「聖書の謎を解く」の反響
この本については、面白かった、笑った、キリスト教のことがよくわかった、という狙いどおりの反響が寄せられています。
一気に読めた、という声も多いのですが、これは著者としては嬉しいことです。読みやすい、というのは、書き手にとって、最も大切なことです。
ではなぜ「迷宮のラビア」は読みにくいのか、という声が返ってきそうですが、
改行がまったくない、という表面的なスタイルに惑わされる読者が多いのではないでしょうか。
少し読み進んで慣れてしまうと、けっして読みにくくはないはずですし、
アンチロマンとしては読みやすい、ということもいえるでしょう。
セリフも改行なしにつながっていて、誰がどのセリフをしゃべっているのかも、
一見わかりにくいようですが、関西弁の人物を配置するなど、これはすべて判読できるように欠いてります。
とはいえ、「聖書の謎を解く」は、文芸科講義録シリーズで培ったレクチャー用の話し言葉です。
もう少しいうと、話し言葉のようなくだけた文章ではあっても、いちおうツボは押さえてあるというもので、
これは「三田誠広のレクチャー文体」とでも呼ぶべきものでしょう。
ですから、わかりやすいのは当たり前なのです。
背表紙が真っ赤という装丁も、よく目立つようで、これが大書店のキリスト教文献の棚に入っていると、異彩を放つことでしょう。
現在は発売直後なので平積みになっていますが、「福音書(エヴァンゲリオン)」や「死海文書」というタームは、トレンドでもあるので、
腰巻きのコピーも効いているようです。
よく売れているようで、発売直後に増刷が決定しました。ありがとうございます。
増刷できるようなら、宗教関係のレクチャー本というジャンルでシリーズ化したいと思っていました。
ということで、来年もこの種のものを書くことになりそうです。
実は当初、「新約」と「旧約」で2冊出すことも考えたのですが、「福音書」についての本がトレンドであることと、
「福音書」つまり「新約」について書くためには「旧約」の情報が不可欠なので、思い切りコンパクトに、1冊にすべてを盛り込むことにしました。
そこで第2弾は、仏教関係ということになるでしょう。
できれば第3弾として、宗教をさらに拡大した「宇宙論」をやりたいと考えています。
これは三田誠広のライフワークの領域なので、究極のライフワークに向かうステップにもなると思います。
「聖書の謎を解く」は、5年前に書いた小説「地に火を放つ者」の解説書としての意味もあるわけですが、
そうすると第2弾の仏教関係のレクチャー本は、「鹿の王」の作者による解説になります。
その次に、宇宙論のレクチャー本を出すのこ、これから書く究極のライフワークに備えて、
あらかじめ解説書を書いておくということになります。
すごいパラノイア的構想ですが、21世紀はパラノイアの時代だとわたしは考えています。

ホームページに戻る