神功皇后06

2026年06月

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06/01/月
新しい月になった。先月は文士劇の稽古が連日続く時期があって忙殺されたが、公演は劇の内容もよくチケットも完売で大成功といっていい結果となった。全体の責任者をつとめていたのでとりあえずほっとしている。思いがけず主役のレット・バトラーを演じることになったのも、それなりにプレッシャーはあったのだが、やりがいのある役だったし皆さんに評価してもらえたので、いい思い出になった。13年ぶりに新しいパソコンを使うようになって途惑うことも多かったがいまは慣れた。このホームページも少し使い勝手が変わったのだが、もう日常の一部になっている。月が変わると新しいページを作ることになるのだが、難なくページを作ることができた。今月は文芸家協会の百周年の宴会や総会、SARTRASの新しい理事長を迎えての総会・理事会・懇親会、歴史時代作家協会の総会などの行事があって、いろいろとたいへんではあるが、文士劇が終わったので、気は楽になっている。『神功皇后』を先に進めるのと、『女が築いた日本国』の完結。それに「文芸思潮」に連載予定の『崇神戦記』の最終チェック。そうした作業をこつこつと先に進めていきたい。さて、文士劇がめでたく終わったので、このページでも哲学的なことを書いていきたい。この年に入ってから、三つのテーマについて考えてきた。宇宙の創成、人間の創成、「私」の創成。おおまかにいえばこの三つだ。「私」に関しては、このノートを書いている「ぼく」という人物がテーマになることがある。文士劇の稽古という、慣れない作業に加わったことで、「ぼく」というものについて、改めて考えることが多かった。「ぼく」というのは一種の器ではあるのだが、普段は生体機械としての自動的な反応について考えているだけなのだが、器そのものについて考えることはふだんはない。しかし3公演だけとはいえ、舞台の上に役者として立ってみると、器についても考えることになる。何しろ役柄が主役のレット・バトラーなのだから、まずは外見というものがある。後期高齢者であるからふだんは「ただの老人」ということでとくに外見について考えることはないのだが、衣装を着て髪型も整えてみると、外見というものも大事だと痛感する。役者としては声と滑舌だが、これには密かに自信をもっている。並みの役者よりちゃんとしゃべれると思っているし、声もいい。講演などもするし、大学では教壇に立っていたので、一人でしゃべり続けることには慣れているのだが、今回はスカーレット役の村山さん、辛酸さんとの対話があった。さらにレット・バトラーを演じなければならない。この人物はヤリ手の嫌われ者という設定なので、ふだんのぼくのキャラクターとは少し違っている。小学6年生の時に「ベニスの商人」のシャイロックを演じたことを思い出した。その時は指導の先生に細かいところまで指示を受けて「いやなやつ」というキャラクターを創出したのだが、その経験があるので、今回は自分で「いやなやつ」感を出すように試みた。始めはふだんの「穏やかでよい人」の殻が破れなかったのだが、途中から元気が出てきた。困ったのはこの人物は舞台から去る時に必ず大声で笑っていることだ。笑うというのはエネルギーがいる。とにかく肺活量が必要だし、いきなり笑うということは難しい。笑う直前の台詞の前に息を吸い込んで台詞を話した勢いのまま笑いにつなげていく。それは芝居がかった行為なのだが芝居なのだから仕方がない。とにかく大声で笑うことによって「いやなやつ」感を出せたと思う。「大声で笑う」というのは器としては大事なことだ。そして芝居の上とはいえ、自分が「大声で笑う」ことのできる器だということが判明した。これは新たな発見だといってもいいが、そんな発見をしても今後に活かせるわけではない。だがとにかく一つの認識として、「自分はいやなやつを演じることができる」器だということは認識できた。ぼくはそういう器をもって生まれてきた。そういうポテンシャルがあったということだ。何だか少し人間の幅ができたような気がしている。

06/02/火
新宿のスポーツマッサージ。ふだんは肩が凝っているだけだが、今日は全身が痛かった。文士劇の疲れが残っているようだ。もまれている間、核融合のことを考えていた。ぼくの子どもころにはすでに水爆の実験が始まっていた。核融合という言葉も聞いたように思うのだが、意味はわからなかった。高校生くらいの時にブルーバックスを読むようになって知識を得た。だがいまだに、なぜ核融合という現象が起こるのか、謎のままだ。謎といえば宇宙創成から陽子が発生し、やがて各種の元素ができるということ自体が謎また謎なのだが、高速で粒子同士がぶつかる状況があると、陽子は融合して重水素となり、ヘリウムになり、炭素や酸素など、重い元素が発生している。通常の衝突だと原子番号26の鉄のところで核融合はストップする。地球の大半が鉄でできているのは、あらゆる元素のなかで鉄がもっとも安定しているからだ。それでも世界には鉄よりも重い元素が存在する。現在の太陽でも、水素からヘリウムへの核融合が進んでいるのだが、鉄ができるようになるとその重さのために中心部に鉄の核ができ、重力によってつぶれ混んでいく。そと側の残り物の水素は爆発してふっとんでいき、重い核の内部で重力による核融合が進んでより重い元素ができ、最終的には超新星爆発を起こす。結果としては、重い元素が宇宙に散らばるのだが、やがて重力によって水素ガスが集まって第二代の太陽となって核融合を始める。重い元素はチリとなってその周囲を旋回しているのだが、やがて重力によってチリが集まり、惑星が誕生する……。というようなストーリーができているのだが、ほんまかいなと思うしかない。重い元素のなかでも鉛以上の元素はアルファー線やベータ線を放出して鉛になっていく。鉛以下の元素は安定しているものが多く、鉄が増えるということはないのだが、とにかく鉄が一番安定していることは確かだ。鉄よりも重い元素は核分裂や放射性物質の放出で鉄になろうとする。軽い元素は核融合によって鉄になろうとする。いずれの場合もその過程でエネルギーが放射されることになる。それは鉄の材料となる元素の総重量と、生成された鉄の重量を比べると、生成物の方がわずかに軽い。その質量が消滅したぶんがエネルギーに変換されるわけで、これは原爆でも水爆でも同じことだ。原爆は原子炉による発電によって平和利用できるようになった。で、水爆の方も平和利用できないかということで研修されているのだ核融合炉だ。核分裂の方はウラン235という同位元素を濃縮するだけで核分裂が始まる。爆発しないように発生した中性子を吸収する炭素棒などをブレーキとして、適度なスピードで熱を発散させてお湯をわかし、タービンを回すことで電力を得る。わりと簡単な原理だ。核融合の方はそうはいかない。水素の原子核同士を衝突させるためには高いエネルギーが必要だ。水素爆弾では「タネ火」として原爆を爆発させる。とても危険なものだ。核融合炉の場合は高速の陽子を巨大な電磁石で封じ込める。これは単に莫大なエネルギーを必要とするだけでなく、電磁石のなかで旋回する粒子をコントロールするために精密な技術が必要で、いまの人類の技術力がどこまで現実なものに仕上げていくかが、未知の領域となっている。原爆の場合は、ウラン235を濃縮すれば、自然に核分裂の連鎖反応が起こり、臨海を超えることがわかっていた。あとのウランを濃縮すればいいということだ。現在は硝酸ウラニウムという液体を遠心分離機でわずかな重力の違いを利用して濃縮する。昔はフッ化ウラニウムという気体を素焼きの壺みたいなもののなかを通して分離していた。これにはたいへんな手間がかかった。アメリカはその手間をかけたというだけのことだ。日本は原理はわかっていたが諦めた。ドイツは原子炉を先に作って廃棄物として大量の同位元素を得ようとしていたようだが、これにはもっと手間がかかる。核融合のいいところは、その技術を開発しても爆弾と仕組みが違うので戦争には使えないということと、危険な廃棄物がほぼ出ないということだ。使う材料も水素や重水素だから、濃縮ウランのような危険なものではない。さて、ぼくの生きている間に、核融合炉の試作品が完成するのか。量子コンピュータとどっちが早く完成するか。とくに長生きをしたいとは思っていないのだが、この結果は知りたいと思っている。

06/03/水
明け方に目が覚めてリビングルームまで行ってみた。窓の外が真っ白で何も見えない。霧におおわれたようだが、それだけ雨量が激しいのだろう。いつもの10時ごろに起きてニュースを見ると、善福寺川、神田川、目黒川などがレベル4の危険状態になっていた。学生時代に吉祥寺に住んでいたので、井の頭公園や善福寺公園は散歩のコースで、赤ん坊だった長男を乳母車に乗せてあちこちを歩いた。世田谷に引っ越す前に不動産屋の案内でいろいろなところを見て回った時も、神田川や善福寺川のそばの物件が多かった。結局、目黒川の少し上流の北沢川と烏山川の分岐点の近くに27年間住むことになった。いまもお茶の水に住んでいて、神田川のすぐ近くだ。このあたりは谷が深いので溢水の危険はないが、いつも散歩に行く水道橋のあたりは危険が迫っているのではないだろうか。今日は一日中、どこにも行かずに閉じこもっているつもりだ。

06/04/木
運転免許更新センターで免許証を更新する。幸いなことに徒歩15分のところにセンターがあるのでちょうどいい散歩になる。ここに到るまでには2つのステップがある。まず東陽町の免許センターで認知機能の検査を受ける。それから勤めていた大学の近くの武蔵境自動車教習所で実地運転の指導を受ける。これが3ヶ月くらい前だった。75歳以上の後期高齢者になるとこれだけの手続きが必要だが、2つの関門をくぐっているので今日は目の検査だけ。写真を撮ってすぐに新しい免許証が出てくる。あとは自宅で藤井くんの将棋を見る。なかなか先に進まない。今週は公用のない一週間で、今日は午前中に医者で検診を受け、免許センターにも行ったのが仕事。まあ、のんびりしていられるが、『女が築いた日本国』を仕上げてしまいたい。AMERICAN−FOOTBALLのことも少し気になり始めている。ラムズの攻勢がすごい。何しろチーフスのディフェンスから2人を引き抜け、ブラウンズから超大物もゲットして、ディフェンスは完璧。スタッフォードは健在で、控えQBもドラフトで補強。まったく弱点のないチームを作り上げた。昨シーズン、シーホークスに負けたのが不思議なほどだったが、ディフェンスの強化で今シーズンは完璧だ。マクダフィーを失ったチーフスだが、新人を補強して弱点はない。攻撃ラインも昨年よりは少しましになっている。問題はタイトエンドのケルシーの体力がどこまでもつか。それとレシーバー陣が弱い。ただランニングバックの補強ができたので、今年はランで前進できる。ワージーのスピードも活かせる。一ヶ月収監されていたライスも頑張るだろう。フリーになっているタイリーク・ヒルを戻すためにはサラリーキャップの壁がある。ワーシーがいるから大丈夫だろう。

06/05/金
何事もなし。イーグルスのワイドレシーバーのトッププレーヤーのブラウンがペイトリオッツにトレードされた。子どものころからのファンだったということで、移籍後は活躍しそうだ。そうなるとAカンファは昨年同様、ペイトリオッツとブロンコスの新鋭QBの対決に、ベテランのQB、ビルズのジョシュ・アレン、レイブンズのラマー・ジャクソン、ベンガルズのバロー、チーフスのマホームズが絡むということになりそうだが、ブラウンを擁するペイトリオッツの陣容を見ると、チーフスのレシーバー陣の弱さが際立つように感じられる。スミス=シュスターもハリウッド・ブラウンもいなくなっているので、もう一人、長いパスをキャッチする人材が必要だ。短いパスはライスとケルシーおよびランニングバックに任せればいいので、タイリーク・ヒルのような足の速いレシーバーがほしい。3年目のワージーがどれだけ成長しているかが楽しみだが、一人だと警戒される。もう一人、遠くまで走っていけるレシーバーが必要だ。少し前に核融合炉の話を書いたが、巨大な電磁石でプラズマを閉じ込めるための技術進歩はあと50年ほどかかりそうだ。石油の値段がもっと上がるとか枯渇するとかで、いよいよ石油が使えなくなれば、核融合炉に投資するしかなくなるのだろうが。核分裂の原子炉もウラン235が枯渇しそうで心許ない。AIなどの巨大な電力を必要とするシステムが増大すると、たちまち電力不足になってしまう。とにかくぼくが生きている間に、何か画期的な状況が見えてくるといいのだが。自分が生きている間ということでいえば、日本一背の高いビルの建設が進んでいる。八重洲のバスの降車場の向かいのあたりに建設が始まっていて、その建設現場がぼくのいる高層住宅からよく見える。工事が始まってからかなり長い時間、地下を掘っていたようで、何の進展も見られなかったのだが、地下が完成したようで、上物の構築が始まった。と思ったら見る間にどんどん伸びていく。もうすぐ隣のビルと肩を並べそうになっている。麻布台ヒルズや虎ノ門タワーは距離があるのでそれほど大きく感じないのだが、この新しいビルは目の前にあるので、すぐに視界をおおうようになるだろう。まあ、見ているぶんには楽しい。

06/06/土
プロ野球の巨人の監督が娘に暴力を振るったところ、彼女がAIに相談。その指示に従って児童相談所に連絡すると、児相は警察に通報。監督は逮捕されて連行された。翌日、監督は辞任ということになった。この「事件」は今後にも尾を引く問題点をはらんでいる。誰がよくないのか。何が問題だったのか。暴力を振るった監督はアウトだ。家庭内暴力というのは、よくあることではあるのだろうが、巨人の監督という公的な立場の人が娘を投げ飛ばすなどということがあってはならない。しかし世間の問題意識は別のところに向かっている。娘がAIに相談をしたこと。AIの指示に安易に従ったこと。次に児童相談所が警察に通報したこと。さらに警察が家庭内暴力に介入して即刻逮捕したこと。逮捕したことを公表したこと。巨人のフロントが監督を辞任させたこと。要するにこの「事件」は誰が悪いのかということにになると、「監督」「娘」「AI」「児相」「警察」「巨人のフロント」と容疑者が多様だということだ。ぼくは「犯人」はAIだと思っている。AIというものが存在しなければ、AIというものがこれほど普及していなければ、AIの無料版が提供されていなければ、このような問題は生じなかった。そしてこの「事件」に関して、AIは責任をとらない。AIを無料で提供した会社も責任を問われない。AIを使うのをやめようという運動が生じることもない。責任を取らされたのは監督と、監督を辞任に追いやったと世間から追及されている娘ということになる。家庭内暴力の被害者であるはずの娘が、監督辞任の責任者にされてしまう。ここでも、AIさえなければ、という結論になるのではないか。スペインにいる医学部の孫が、有名な文学作品を読んでそこにある医療的な問題点を論じよ、という課題を与えられて、AIに相談したところ、ドストエフスキーの「罪と罰」に関するそれらしい論文が出てきた。そこにはもっともらしい論旨が展開されていたのだが、孫は不審に思った。孫は「罪と罰」を読んだことがあったので、作品の内容を知っていた。AIの論旨は、作品とはまったく関係のないもので、ただ「罪と罰」というタイトルから思いついたような議論をしているだけだった。それで孫が再度質問すると、AIは正直に、さっきの論文はまったくの嘘でした、と告白した。AIは嘘をつく。そんなものを無料で普及さぜているというのは犯罪ではないだろうか。家庭内暴力が問題視されるようになったのは、ごく最近のことで、警察は「民事不介入」という態度をとるのが常識だった。しかし家庭内暴力が急速に増えたので、児相は相談を受けるとただちに警察に通報し、警察はただちに出動して暴力が確認されれば逮捕する。そういう最近の傾向をAIは知らずに、無責任なアドバイスをしたということだろう。「友人から高収入のバイトがあると誘われたが従っていいだろうか」「息子が仕事でミスをして埋め合わせのために多額の借金を申し出てきたが金を渡すべきだろうか」「知人が事業に失敗して金融機関から借金する必要があって保証人になってくれと頼まれたがハンコをついてよいか」こんな質問をしたら、AIはどんな答えを出すだろうか。いずれにしてもAIは責任をとらない。無料のAIを提供している企業も責任をとらない。そんな危険なものを野放しにしておいていいのか。親が暴力を振るえば児相に相談するというのは、正しい判断かもしれないが、親が逮捕されて結果としてその家の経済が破綻したり、子どもが児相という場所にしばらく監禁状態になってしまうこともある。そういう結果が可能性としてあることを踏まえて熟慮する、ということをAIはしない。ただ一人暮らしの老人が寂しさに耐えかねてAIを話し相手にする……というようなことがあるのは仕方がないことかもしれない。老人がAIと接するのは半ば墓穴に入っているようなものだ。ただAIを話し相手にしているのは、若い人に広まっているようど。チャットGTPは、チャッピーという愛称で呼ばれて、それで話が通じるようになっているらしい。AIというものが話題になり始めたころ、いずれAIが小説を書くようになるのか、という問い合わせが文芸家協会に来たことがある。「いまは議論する段階ではない」とぼくは答えた。その考えはいまも変わらないが、新聞で投稿俳句の選者をしている方からは、あまりにも出来のいい投句は、AIではないかと疑う必要があるというのが、俳句の世界でも広まっているようだ。ぼくも大学の教員をしていたころ、学生のレポートに怪しいものがあれば検証したことがある。いい文章だと思われるところを抜き書きしてグーグルなどで検索すれば、ただちにその論文が出てくる。ネットに出ている論文をコピペすれば、すぐにバレるということを学生は知らないのだろうかと思った。いまは怪しい文章があれば、AIに相談すれば、ただちにそれはAIが書いたものだと判定してくれるだろう。

06/07/日
昨日はAIのことを考えてみたが、ぼくは自分ではAIを使わない。余命も短いのでそんなものに時間をとられたくないと考えているからだが、無料AIのダウンロードのやり方についてはネットで調べてみた。わりと簡単そうだ。知人のなかには有料AIを使っている人もいる。出席した会議の議事録が、AIでまとめられているのが送られてくることもある。議事の論旨が男女の会話に変換されて音声で伝えられるというようなものにも接した。AIは便利だが、何か違う、という感じがつきまとっている。昭和の人間だから仕方がないのかしもれない。話はかわるか、ネットのニュースサイトはよく見るので、断片的な情報が入ってくる。素粒子がヒモの振動だという仮説があるが、ごくシンプルな数学上の定義から必然的にヒモの振動が導かれるという理論が提出されたそうだ。これを聞いて直感的に、そういうこともあるだろうという気がした。ハイゼンベルクのマトリックス(行列)の数式と、シュレーディンガーの波動方程式が、数学的には同値だという説明を聞いたことがあるが、これも、そういうこともあるだろうと思うしかない。素粒子のような小さいものは、目では見えない。顕微鏡でも見えない。見えないものをどうやって認識するかというと、素粒子が動いた結果が、ウィルソンの霧箱のように目で見える軌跡になることがある。あるいは大量のデータがあれば、そこから確率論で何らかの数式モデルを導き出すことがある。そういうおおざっぱと思われる観測結果と、数式モデルに整合性があれば、原理そのものは見えなくても、数式モデルには何らかの意味があるのではないかと考えられる。超ヒモ理論と呼ばれているものは、ヒモそのものの実態はわからないものの、その数式モデルに何らかの意味があると考えられているのだろう。素粒子の存在は不確定だ。不確定だから何もわからないかというと、ヒモが振動しているという数式モデルをあてはめると、何らかの整合性が感じられるということだろう。ではそのヒモとは何なのか。どんなヒモなんだ。というようなことを入ってもしようがないのだが、素粒子が「確率の雲」のなかにいる、というのと、ヒモが振動している、というのでは、似たようなものではないかと直感的には思うのだが、数学モデルとしてはヒモの方が整合性が高いということだろう。まあ、どうでもいいことではあるのだが、とにかく素粒子は「小さな粒」ではなくて、縄跳びのヒモの回転が速くなって見えなくなってはいるが、手を伸ばせば触れることができる、というようなものだということは直感的に理解できる。そして、確率の雲が現実的な実態と同値であるように、ヒモは確かに実在すると考えてもいいのだろう。これと量子コンピュータとがどのように結びついてくるのか、頭のなかが混乱しそうだが、ヒモというのは実在のヒモではなく、不確定な仮想のヒモだということであれば、そういうものかと思うことは可能だ。で、突然、話は変わるのだが、文士劇でレット・バトラーを演じたことは、ぼくという生体機械に何らかの影響をもたらした気がする。ぼくは子どものころ、児童劇団に入っていた。姉も中学から大学まで演劇部に所属していた。そして姉は本物の俳優になった。ぼくが俳優になってもおかしくなかったのではと思いつつ、ぼくは小説家になった。ただ不確定な可能性としては、シュレーディンガーの猫のように、「小説家になったぼく」と「役者になったぼく」とは、可能性としては同値であったはずだ。ただこれはあくまでも仮想の理論でしかなかったのだが、今回、紀伊國屋の舞台の上でレット・バトラーを演じてみて、それが仮想のものではなく、確かにありえたかもしれない現実の一端だと実感することができた。ただし何しろ後期高齢者なので、体はきつかった。三回の公演が限界だった。プロの役者は一ヶ月ほど公演し、地方に巡業に出ることもある。昔、姉は「オンディーヌ」の妖精を演じて、日本国中を回っていた。そういうのを見ていたので、自分は小説家になってよかったと思っていたし、いまもそう思っている。しかし今回の体験は有意義だったし、共演者と仲間意識みたいなものができたことも貴重な体験だった。小説家は編集者および顔を合わせることのない校正者とはチームプレーなのだが、演劇は共演者の顔が見えるので、楽しい体験だったし、共演者だけでなく、衣装、メイク、小道具、制作進行などのスタッフとも、苦労を共有することができた。それを支えてくれた文芸家協会のスタッフにも感謝している。

06/08/月
SARTRASの臨時理事会。今週の日本文芸家協会の百周年記念の宴会もある。当日は総会の前後にも常務理事会や理事会、記念イベントなどぎっしりスケジュールが立てられている。こちらは責任者となっていた文士劇が無事に終了したので、ただ出席するだけでいいのだが、知人がいれば挨拶しなければならず、それが体力を必要とする。何となく全身に疲れを感じているので、最後までもちこたえたいと思う。話は変わるが世界情勢が何かおかしい感じになっている。問題なのは全体主義の国家が点在していて、とても危険だということだ。ファシズムについては改めて考えてみたいのだが、日本もかつてはファシズムの国家だった。ぼくが若いころに体験した学生運動というのも、一種のファシズムだった。大きな災害が起こると「きづな」ということが言われるのだが、その「きづな」というのがまさにファシズムの語源なのだ。ファシズムとは「きづな主義」ということで、弱者がきづなによって団結すれば何とかなるという考え方だ。中国や北朝鮮、ロシアのような共産主義国家だけでなく、イランやイスラエルも「きづな」によって国家を支えている。こういう国はアメリカのようなポピュリズムの国家と同様、何をするかわからないところがある。日本人は「きづな」を大事にしすぎるところがあるので、世界全体に広がっている「きづな主義」の渦に巻き込まれないようにしなければならない。

06/09/火
昨日に続いて「全体主義」について考える。江戸時代の朱子学、そこから導き出された「武士道」というのも、一種の全体主義の思想だろう。それは日本国全体というよりも、武士という階級の掟を守ろうとする全体主義で、江戸幕府を中心とした武士全体よりも小さな、たとえば忠臣蔵の場合は小藩が取りつぶしになって失業した武士集団という小さなグループの全体主義、きづな主義だったわけだが、これを歌舞伎にすると大当たりをとったので、江戸の庶民もきづな主義の美学は充分に理解していたということになる。この全体主義は小藩といった単位よりも小さな、一つの家族、「家」というものを守ろうとする小さな全体主義も生み出して、個人を束縛することになった。この束縛は戦争に負けるまで日本人の全体を拘束していて、戦後もしばらくは、「封建的」という言葉で批判の対象にはなっていたが、批判されるということは、その全体主義的な実態は残っていたと考えられる。全体主義は、快感と安堵感をもたらす。それはいまの高校野球にも受け継がれている。日本の野球はチームプレーを大事にする。チームの一員であるということが、快感と安堵感をもたらすのだ。チームの一員であることが大事なので、ヒーローになれなくても、球拾いをやっているだけで幸福になれる。つまり全体主義というのは、みんなが幸福になれる思想なのだ。自由主義、資本主義、個人主義では、つねに勝ち負けがある。トーナメントみたいな闘いだと、勝者は一人だけで、他は皆、負け犬になる。とくにいまは資本主義が末期的な状態になっている。巨大なファンドだけが勝者になり、個人は全員が敗者になるような状態になっている。誰もが、いまの自分は幸福ではないと思い、今後も幸福にはなれないと思っている。せいぜい、スポーツ選手やタレントのなかに「推し」の対象を見つけ、ファンであることに喜びを感じる。「推し」が所属するグループのCDを100枚勝って、握手会への参加を許され、二言三言言葉を交わす。そんなささやかな幸福を求めている人がいて、結局のところ誰も幸福にはなれない。そんな状況が長く続くと、全体主義にあこがれる若者たちが増えていくのではないか。ぼくが体験した学生運動や、その後のカルト的な宗教集団、同時期の中国の紅衛兵や、天安門事件、そしていまのイスラエル、レバノン、イランの抗争。そこには美しい「きづな主義」がある。ぼくが「続カラマーゾフの兄弟」で書いたのも、「きづな主義」の美しさとその危険性みたいなものだ。ぼくは実は、全体主義にあこがれているところがある。ぼくの場合は、「文学の理念」みたいなもののために、一生を費やそうととする作家たちの生き方に、自分も賛同したいと思うところがあって、これは「文学全体主義」とでもいうべきものだろう。ただ先日まで文士劇に参加していたので、これは「楽しい全体主義」「心あたたまるチームワーク主義」だと感じていた。とくに若い女性作家は皆、元気で前向きで勢いがいい。筆をもって最後の一文字を書いてバタッと死ぬ、みたいなヒロイズムとは無縁で、明るく楽しく小説を書いていて、文学を楽しんでいる。そういう人々もいるのだということを実感したし、3公演を満席にしてくれた観客の皆さんも、文学を楽しんでくださったのだと思う。明後日は、文芸家協会百周年の大宴会がある。まあ、皆さんに楽しんでいただければと思っている。

06/10/水
日本点字図書館の会長、田中徹二さんの忍ぶ会。田中さんと初めて会ったのは25年くらい前だったか。点字図書館で録音図書(音訳図書)をネット配信するシステム構築の準備ができたが、点字や朗読の録音そのものは権利制限だが、ネット配信については法律改正が進んでいない。準備ができたのでネット配信の実証実験をしたいがいまのままでコンテンツを送れない、というような話だった。ぼくはただちに文芸家協会の会員にお手紙を送って公衆送信を許諾してほしいと依頼し、返信用の葉書を同封した。「諾」という文字にマルをつけるだけでいいという簡易なもので、ほぼ全員の方に「諾」の返信をいただいた。それで実証実験はできるようになったのだが、ぼくは田中さんとともに文部科学省と文化庁に出向いて法律改正の要望を伝えた。ふつうは三年かかる法律改正が一年ほどで成立したのは、お役人の方々も本気になってとりくんでくれたからだろう。同時に視覚障害者だけでなく、識字障害が筋ジストロフィーなど本をもって読めない人にもこのネット配信が利用できるように法律が改正された。この誓願の時に田中さんと親しくなって、その後、点字図書館の評議員や理事になり、いまも理事を務めている。九十歳を過ぎておられたがまったく元気そうだったのに、急に亡くなられた。とても残念だが、そういうこともあるのかと思った。会場には視覚障害者の方も多く、盲導犬が何頭かいた。田中さんを始め、視覚障害者とのつきあいが増えて、飲み会に盲導犬と同席することも何度かあった。向かいの席の人の盲導犬がぼくのつま先を枕にして寝てしまったことがあった、何かとても幸せな気分になった。視覚障害者の人もふたうにパソコンが使え、視覚障害者用の電子手帳もあることを、多くの人は知らない。田中さんと出会って学ぶことが多かった。ご冥福をお祈りしたい。

06/11/木
長い一日。文芸家協会百周年のメインイベント。常務理事会に始まって、総会、中断して理事選挙のための理事会、総会の後半、新理事長選挙のための理事会、鴻巣さん司会による桐野夏生さんと川上弘美さんの対談。それから百周年の懇親会。文士劇の出演者がたくさんいたので挨拶して回る。記念事業のもう一つのイベント、映画の予告編と、文士劇のようすが映像で紹介された。自分が演技しているところを見るのは少しヘンな感じ。稽古場のようすを映像で見たことはあるが、カンニングボードを見ていると目線が下になり、ぼくは女性と対面するとうつむいてしまう気弱なところがある。ふだんから姿勢がよくないと妻にも言われていて、本番では胸を張り、相手役の顔を見るよりも、観客席の奥を見ながら台詞を言うようにしたのだが、それでいい感じになっていた。これなら大丈夫だ。「中締め」の挨拶が担当なのであまり飲まずにいたし、挨拶して回ったので何も食べなかった。「中締め」はうまくできた。長い一日が終わって、一つのイベントが通り過ぎた。今日が最大のイベントで、百周年事業は峠を越した。理事長は林真理子さんから三浦しおんさんに交替。女性の方が有能だということはこのところ痛感している。

06/12/金
文士劇は遙かな過去であり、遠い昔にそんなこともあったな、という気がしていたのだが、昨日の懇親会で多くの共演者と顔を合わせたので、稽古期間中の緊張感がぶりかえしてきた。確かにかなり緊張していて、ふだんの自分とは違った日が続いていた。いまはもとの穏やかな日々になっているのだが、昨日はとても疲れた感じがした。が、百周年パーティーという最大の山場も終わってので、やっと一息つくことができる。残りは映画、記念誌の発行、文芸年鑑のアーカイブの三項目だけだ。映画についてはぼくはまったくタッチしていない。昨日の予告編を見た感じでは、いい感じに仕上がっているようだが、地味なドキュメンタリーという感じだ。文士劇はそれなりにおもしろくエキサイティングな内容に仕上がっていて、来場者の楽しんでいただけたと思っている。三公演のチケットが完売した時点で、責任者としてのぼくの仕事は終わって、あとは自分の演技に集中できた。記念誌は過去の会報のエッセー欄から文学史的に価値のあるものや、読んでおもしろいもの、時代のムードが出ているものなどをピックアップする作業に、ぼくも参加した。仕上げは出久根さんなのでぼくの手は離れている。いずれにしてもこれは会員に配布するだけのものなので売れ行きを心配する必要はない。文芸年鑑のアーカイブは、費用をSARTRASがある程度、負担してくれることになったので、その時点で成功と考えていい。あとは小学館のサイトに出すだけで、これも売れ行きなどを心配する必要はない。ということで、映画は映画館で上映することになるので来場者があるか心配だが、映画を作ることに意義があると考えれば赤字でもいいので、とにかく百周年事業はすべて成功だと考えていい。理事長も交代したことだし、次の段階に進めばいいと考えている。ぼくはSARTRASの副理事長を兼ねているので、これからはそちにの心配をすることになる。

06/13/土
さて週末。大きな行事が次々と終わって、少し肩の荷が下りた気がするが、来週はSARTRASの総会・懇親会がある。こちらでも仕事をしているので役目を果たさなければならない。本業の小説はほとんどリタイア状態だが、『神功皇后』は草稿が残っていた部分が終わり、これから未踏の領域に入っていく。というところで現実の生活が忙しくなって作業が中断している。『女が築いた日本国』はいま最終回を書いているのでこれが終わったら作業を開始したい。

06/14/日
サッカーのワールドカップが始まった。ところでこの競技をサッカーと呼ぶのは日本とアメリカだけらしい。足でボールを扱う競技。だからフットボール。これが世界標準だ。大学のころ、必修の単位で「体育」の講義を受けると、有名なラグビーの大西教授が、サッカーの早慶戦では、「早稲田ア式蹴球部対慶応ソッカー部対抗戦」という表示が出ると話していた。ソッカー部は発音の問題だが、ア式蹴球というのは、アソシエーション・フットボールのこと。英国でも昔はこの名称だったようだ。ア式というのは「アソシエーション」ということで、それまで地方ごとにローカルルールがあったフットボールを協会が統一してこの名称となったらしい。その統一ルールに従わなかったのがラグビーフットボールで、ラ式とア式の2種のフットボールが共存していた。サッカーというのはアソシエーションの中ほどのスペルにERをつけた略称らしい。ところが英国ではラグビーフットボールが単にラグビーと呼ばれるようになったので、ア式の方はただフットボールと呼ばれるようになり、世界でもそう呼ばれている。ただアメリカでは、AMERICAN−FOOTBALLという新しいルールの競技が生まれ、こちらが圧倒的に普及したので、区別のためにサッカーという言葉が残ったのが、なぜか日本でも定着したということらしい。「青天」が直木賞候補になったので、日本でももしかしたらAMERICAN−FOOTBALLがもっと普及するかもしれないので、サッカーはサッカーのままでいいと思う。そのAMERICAN−FOOTBALLだが、シーズンが始まる9月はまだ先だ。ぼくはやはりチーフスを応援したいと思っている。昨シーズンの不振は何だったのか。オフェンスラインが崩壊してマホームズが自由に動けず最後は怪我までしてしまった。ランニングバック陣も不調だった。競り負けた試合が多かった。その反省でチームを再建しつつあるようだがどうなるか。まずマホームズは順調に回復しているようだが、控えにジャスティン・フィールズが入ったので始めの数試合を任せることは可能だ。ラインは多少の補強はしたものの万全ではないが、ランニングバックにスーパーMVPのウォーカーが入った。この選手は短いパスを受けて走ることもできるので、相手ディフェンスもマホームズだけを警戒するわけにはいかなくなる。4thダウンギャンブルの時などはジャスティン・フィールズを臨時のQBとしてもいい。走れるQBだし先発経験が豊富なので臨機応変のプレイができる。ディフェンスはマカフリーがいなくなったのだが、スニードが戻ったし新人も入ったので大丈夫。レシーバー陣がやや手薄だ。 ハリウッド・ブラウンとスミス・シュスターがいなくなったので、ロングパスの受け手がワージーだけになった。怪我で休んでいるタイリーク・ヒルにプレーオフ前に安いギャラで戻ってきてもらうわけにはいかないだろうか。タイトエンドのケルシーはシーズン前にテイラー・スウィフトと結婚するようだ。用心棒としてツアーに同行したりしないか。例年どおり出場できるようなら、ライス、ケルシー、ウォーカーとショートパスの受け手が3人揃うので、相手ディフェンスは前がかりになる。たまにワージーにロングパスを投げればいい。ジャスティン・フィールズでも同じことができる。フィールズは自分でも走れるので多様な攻撃ができる。ただAカンファの西地区は強敵ばかりだ。スーパーを狙っているニックスのブロンコスに、ハーバートのチャージャーズ、さらにドラ1QBのメンドーサが入ったレイダーズと、まさに4強状態になっている。まずは地区優勝に向かって取りこぼしを少なくしていきたい。そうなるとジャスティン・フィールズでは苦しい。開幕からマホームズ復帰というのは、少し無理かもしれないが、できればそうあってほしいと願っている。

06/15/月
アメリカとイランの和平調停が進みそうだという情報で株価が急上昇しているようだが、テレビはオランダ戦の引き分けがトップニュースだ。会場がダラス・カウボーイズのホームスタジアムで、こんなところでサッカーやるなよという気分になる。山なりのロングパスが投げられたり、長いゴールキックが飛んでいったりといった、ボールが高く上がる局面がサッカーにはほとんどない。ただフィールドを這うようにボールが転がっていくだけだ。しかもキーパーを除いては蹴ることしかできないプレーヤーが右往左往している。AMERICAN−FOOTBALLの場合は、選手にはポジションがあり別々の役割がある。そして日本将棋のような陣形があって、高度の知的ゲームになっている。それでもオランダのゴールは2本とも左右のぎりぎりのゾーンに飛び込んだ。あれではザイオンも手が届かない。それでもまあ、よく同点に追いついた。あと一つ勝てばトーナメントに進めるだろう。

06/16/火
2週間に1度、車を動かすために深川ギャザリアまで行く。イトーヨーカドーのあるショッピングセンターだ。ダイソーで買い物をする。老眼鏡、腕のサポーター、買い物袋など。住んでいる集合住宅の同じ敷地にスーパーマーケットがあるのでふだんの買い物に不便はないのだが、車のバッテリーに充電するのが目的で深川まで行くと、ユニクロとか電気屋とかもあるので便利だ。秋葉原まで歩いていけるので買い物もそこですればいいのだが、人が多い。ショッピングセンターは適度の混みようで、落ち着いて買い物ができる。ぼくは高校までは実家にいた。早稲田に入って東京の渋谷から一つ目の神泉というところに住んでいた。一人暮らしをしたのは三か月ほどで、すぐに妻と暮らすようになった。荷物持ちで妻の買い物につきあうようになって、渋谷のスーパーに行くようになった。吉祥寺に引っ越したあと、八王子めじろ台というところに8年住んだ。郊外の住宅地で駅前にスーパーがあった。駅から5分もかからないところで歩いて行けたのだが、荷物が多い時は車で出かけた。車なら少し離れたところにあるスーパーにも行けるし、遠くの卸売り市場みたいなところにも行けた。それから世田谷区三宿というところに引っ越して27年住んだ。ここでも徒歩5分ほどのところにスーパーがあった。小さな駐車場があって車で行くこともあったが、車を入れにくかったので、少し離れたスーパーにも行くことがあった。浜松に仕事場あるのでそちらでも買い物に行く。これは車で行くしかない。しかし道路が空いているので来るまでどこへでも行ける。遙か遠くのショッピングモールに行くこともある。ぼく自身は、買い物というものにまったく興味がない。何かをほしいと思うこともない。最近は本屋にもあまりいかない。ネットとテレビがあればたいていのことは用が足りる。老人になると好奇心がうすれていくのかもしれない。

06/17/水
パソコンを新調してから一ヶ月半になる。それまでは13年前に買ったWindows7を使っていた。ネットはInternet Explorerで見ていたので、ほとんどのサイトが作動しなかったのだが、AMERICAN−FOOTBALLのホームページは見られたし、自分のホームページを作るのにも使えたので、そのまま使う続けるつもりだったが、更新プログラムが入り込んだりしているうちに、メモリーがゼロに近づいてきて、何もできなくなった。原稿などは外付けのSSDに入れたのだが、いよいよ動きがとれなくなったので通信販売で購入した。13年前に入れた一太郎のATOKが入るか心配だった。大学の研究室で使っていたWindows10には入ったので試しにやってみたらうまくいって、キーボードの配置も踏襲できた。ぼくは最初に東芝のワープロを使っていたので、その配置をATOKにも反映させていた。スペースキーの右横の変換キーが「カタカナ」になるのが特徴だ。それはうまくいったのだが、前のパソコンには表示されていたATOKの言語バーが出てこない。そこには単語登録や文字パレット、環境設定などのアイコンがあってよく使っていた。昨日、ひまだったので、「ATOK言語バー」で検索してみると、やり方が出ていたのだが、それはWindows10のためのもので、やってみると少し違っていてうまくいかなかった。それでもこのあたりをいじっていると何とかなるとわかったので、さまざまな方法を試みたのだが、すると突然、言語バーが出てきた。どうやって出したのかわからないが、とにかく一度出たものは消えることはないだろう。老人になるとこういうことがたまにある。どうやったのかはわからないが、結果オーライといった感じで物事が進んでいく。いまこのホームページの原稿はメモ帳で書いているのだが、以前はInternet Explorerでメモ帳を呼び出すことができた。エッジではそれができない。で、どうしているかというと、何となくできるようになったというしかない。そういうこともあるのだ。いまテレビでアルゼンチン対アルジェリアの試合をやっている。スタジアムのスタンドの感じが見覚えがあるので、アナウンスを聞いていたのだが、間違いなくカンサスシティーといっていた。チーフスのホームスタジアムだ。ワシントンのレッドスキンズは差別表現ということで、チームの愛称をコマンダーズに変えたのだが、チーフスはそのまま。昔のテレビドラマの西部劇では、「酋長」という訳されることが多く明らかに差別的だが、英語のチーフは単なる組織のトップという意味だから問題ないのだろう。しかし試合のある時は、ドンドコと太鼓を鳴らし、観客の全員で「トマホークチョップ」という斧を振り下ろす真似をするので明らかに原住民を思い出させるのだが、そのままになっている。プレーオフの時期にはマイナス20度にもなる場所だが、いまはちょっと涼しいくらいの感じで、メッシが気持よく先制のロングシュートを決めていた。

06/18/木
SARTRASの総会・理事会・懇親会。今回から理事長が交代して、長く裁判官を務めた女性の弁護士の方になった。公正性と透明性の必要な組織に相応しい方に理事長になっていただけたと感謝している。理事のメンバーもかなり替わったので懇親会では挨拶に回るのに忙しかった。ビールは飲まないようにしているのでウイスキーのロックを2敗飲んだ。中締めの挨拶を無事に終えた。とくに深く考えたわけではないが、本日の懇親会は大事な会だった。何とか終えることができてよかった。

06/19/金
SARTRASからいくつかの雑用の依頼があって時間をとられた。夜の7時からは歴史時代作家協会の総会。これはネット会議だが、この会議で1年半ほど務めた代表代行の責務から解放される。この組織のメンバーは意欲のある人ばかりで、よく頑張っていると思う。歴史時代作家協会賞という催しも十年以上も続いていて、いまでは単行本の帯を作り直したり、文庫化の時の帯に入れられたり、出版界に認知されるようになった。今年も候補作が決まり、そろそろ本が送られてくるころだ。この時期には日大文芸賞と、同人誌の最優秀作を選ぶ「まほろば賞」の選考もある。文芸家協会とSARTRASの懇親会が終わってほっと一息ついているのだが、これからは作品を読む作業が続くことになる。

06/20/土
週末は静かだ。朝から雨。来週はかなり忙しいスケジュールが入っている。6月は決算を出す組織が多く、総会の類が立て続けにある。まあ、週末くらいはのんびりしたい。考えてみれば、昔は大学の専任教員をやっていたので毎日職場に通っていた。そのことを思うといまはzoomの会議に出るだけなので楽ではあるのだが、大学は行けば自分の部屋があって、空き時間はそこで仕事をすることができた。気分展開にもなった。いまは散歩に出るくらいのもので、毎日が単調になっている。歴史時代作家協会のホームページに連載していた『女が築いた日本国』はあと7回で完結するのだが、下書きはできている。古代の女帝と、平安時代の国母について書いたもので、そこに百済王明信や紫式部のエピソードを加えた。いずれもぼくの作品のなかに登場させた女性で、小説に書いた人物は他人とは思えない。AMERICAN−FOOTBALLのこともあまり考えなくなった。9月はまだ先だ。ただQBのトレードなどは一段落したので、各シームの陣容が見えてきた。去年のチャンピオンシップに出た4チーム。Aカンファのペイトリオッツとブロンコス、Nカンファのシーホークスとラムズは、今シーズンも優勝候補だ。ただ同じくらいの戦力を調えたチームがいくつかあるので、プレーオフは激戦になるだろう。テレビでやっているのでサッカーのことも気にかけているのだが、孫のいるスペインは調子が出ていない。アルゼンチンの連覇か、フランスか。日本はトーナメントの初戦で敗退という気がしている。

06/21/日
今日は昼間の試合なのでリアルタイムで見たが、じっと画面を見ていても仕方がないので、今度アマゾンから電子書籍になった『人麻呂しのびうた』を読み返していた。だからシュートのようすはリアルタイムでは見ていない。ゴールというアナウンスを聞いてからビデオの映像を見ただけだ。1点目が入っただけでは安心できなかったが、2点目が入って少し安心し、3点目でかなり安心した。4点目はおまけ。ベルギーに2対0から逆転された試合をリアルで見ていたが相手はベルギーではないので2点目でかなり安心できた。まだトーナメント出場が決まったわけではない。金曜日にスウェーデンとの試合がある。それまでに3戦全敗のチームや1勝2敗のチームが出てくるだろうから、勝ち点4があればトーナメントに進出する可能性は高くなったといえるし、1位通過でもブラジルと当たる可能性があるので、1位通過にこだわることはない。とにかく勝ち点が4になったのはめでたいことだ。

06/22/月
オーファン委員会のネット会議。この会議はぼくが議長をつとめているが、話す人がいないと自分一人がしゃべり続けることになるので疲れる。夕方は教育NPOとの定期協議。これはリアルな会で終わると懇親会がある。高齢者ばかりの会で、帰る時に全員が立ち上がるのに時間がかかる。

06/23/火
世の中はサッカーで沸き返っているがぼくの頭のなかはAMERICAN−FOOTBALLしかない。サッカーは3戦目にスウェーデンに負けたとしても勝ち点4をあげているので3位通過できるだろうが、その場合はトーナメント初戦にフランスと当たる確率が高いらしい。1位または2位通過の場合はブラジルまたはモロッコでどちらも強敵だ。ブラジルには練習試合で勝っているとはいえ、トーナメント初戦で敗退する可能性も高い。まあ、ぼくにとってはどうでもいいことだ。そろそろ本気でAMERICAN−FOOTBALLのことを考えたい。動向が注目されていたかつてのスーパー覇者(ペイトン・マニングに勝って制覇した)ラッセル・ウィルソンはテレビの解説者になる契約をしたので事実上の引退だろう。ということで、QBの移動がほぼ完了した。AMERICAN−FOOTBALLのチームの総合力は、QBが半分以上を占める。野球の場合はエースの投手がいくら頑張っても5人のローテーションの1人にすぎない。打者の場合は9人のうちの1人だ。しかしQBはほぼ一人で攻撃を推進できる。ディフェンスがよほどひどくなければ、QBの優劣で勝敗が決まる。ということで、各チームの先発QBを眺めながら、スーパーボウルまでの道程を展望したい。まずはAカンファの東地区。昨シーズンのカンファ覇者のペイトリオッツは、スーパーの闘いでメイの限界を見たように思ったが、新人3年目で本人のギャラが安いので、高額を支払って他のメンバーを補強できる。今シーズンのペイトリオッツは確実に去年より強くなっている。今シーズンこそスーパー制覇という意気込みを感じる。ただ昨シーズンのプレーオフのカンファ決勝では、相手のブロンコスのQBボー・ニックスが足の骨折で出られなかった。準決勝のビルズ戦が死闘というべき試合だった。そのことを考えると、ペイトリオッツ、ブロンコス、ビルズはほぼ互角の3強といえる。そのうちのビルズと同じ地区なので、地区優勝争いも死闘というべきだろう。ただビルズはヘッドコーチが代わっているので戦略的にダウンするのではないか。ジョシュ・アレンのギャラが高いので補強もできていない。地区優勝はペイトリオッツだろう。2位がビルズでプレーオフ出場は確実。2強2弱。それはもうはっきりしている。ビリ争いは混沌としている。ジェッツは先発のジャスティン・フィールズをチーフスに放出して、レイダーズのジーノ・スミスを移籍させた。レイダーズは昨シーズンの最下位で、ドラ1の権利を獲得しメンドーサを指名できた。その最下位になったQBを移籍させてどうする気だ。今シーズンも最下位を狙って来年のドラ1を望んでいるのか。控えは新人のクルブニック。潜在力はありそうだがすぐに活躍というわけにはいかないだろう。ドルフィンズも何を考えているかわからない。先発のタゴヴァイロアを放出してパッカーズの控えQBのウィルスを移籍させた。この控えQBで今シーズンは闘うつもりのようだ。こちらも来年のドラ1を欲しがっているのか。控えQBが活躍することはたまにはある。長年ブレイディーの控えだったガロポロは、49ナーズに移籍してスーパー出場を果たした(チーフスに負けたが熱戦だった)。しかしブレイディーの控えというのはとんでもないポジションで学ぶことも多かっただろう。ウィルスはパッカーズではラブの控えだった。そのラブは長年ロジャースの控えだった。控えの控えにすぎないウィルスがどれほどのものか。やはりこの2チームは全体のビリ争いということになるだろう。

06/24/水
Aカンファ北地区。昨シーズンはロジャースのスティーラーズが制した。レイブンズのラマー・ジャクソンが絶不調で、ベンガルズのバローは負傷が長引いた。本来なら、3強1弱になるところで、そのなかから、今年はベンガルズが出てくるのではと思われる。バローの怪我が完全に治っているというのが前提だが、ディフェンスが強化されて、闘える体制が整っている。ラマー・ジャクソンがなぜ不調だったのかわからないのだが、チームがガタガタになっていた。ヘッド・コーチが更迭されて、さらに弱体化するのではという気がする。スティーラーズのロジャースはダメでしょう。まったく動けずに、ただ立ってボールを投げるだけ。新人のオーラーも一年目からの活躍は無理。そう考えてみると、ベンガルズの1強3弱になるのかもしれない。とりあえず1位ベンガルズ、2位レイブンズ、3位スティーラーズということにしておく。で、問題はブラウンズだ。いまはバッカニアーズで活躍しているメイフィールドが新人でいきなりプレーへオフに進出したころが懐かしい。同じ年の新人がジェッツに入ったダーノルドで昨シーズンのすーぱー覇者だ。二人とも移籍してから本当の活躍が始まった。で、伸び悩んでいたメイフィールドを放出してテキサンズのワトソンを引き抜いた。見返りにドラフトの権利を3つくらい放出したので、その後、ブラウンズにめぼしい新人が入らなくなった。そのワトソンがまったくの不振で怪我の連続。まともにフィールドに立ったこともない。そのワトソンが戻ってくるらしい。戻らない方がいいとぼくは思うのだが。昨年のドラフトでブラウンズはドラフトの下位で売れ残っていたガブリエルとサンダースを連続指名した。ガブリエルを使ってみたがうまくいかず、最後の方でサンダースを出したら、勝てるようになった。今シーズンはサンダースにかけるーべきだろう。親の七光りみたいな選手だが何かをもっている。いまのところビリ候補だが、サンダースを先発で使うならダークホース的な存在になる。

06/25/木
Aカンファ南地区。ここはまだ新鋭といっていいストラウドのテキサンズと、いまや中堅QBとなったトレバー・ローレンスのジャガーズが強いのだが、昨シーズンのコルツは、怪我の多い新鋭のリチャードソンを見限って、ジャイアンツで先発を務めた経験のあるダニエル・ジョーンズを先発に据えた。圧倒的な勢いで連勝を続けたのだが、途中で負傷してプレーオフ出場もできなかったのだが、怪我がなければ、今年は地区優勝候補の筆頭といってよい。ということは3強1弱となるところだが、ビリのタイタンズは昨年のドラ1のウォードを擁している。ドラ1をゲットしたチームはその前年の全体ビリだから、チーム力は最弱で、ドラ1QBが入ってもすぐに強くなるわけではない。しかし新人QBのギャラは安いので、そのぶんを他の選手に回せる。ただめぼしい補強はなかった。オーナーやヘッドコーチにやる気がないのか。QBを守るオフェンスラインも弱いままだし、ディフェンスの強化も進んでいない。ぼくの順位予想は期待をこめてコルツをトップに推したい。2位テキサンズ、3位ジャガーズ。タイタンズはやっぱりビリだ。ところで本日の朝、まだベッドで寝ている時に、頭のあたりでギシギシと音が鳴り始めた。窓枠も何やら怪しい気配だ。何事かと思ったが青森の地震の長期震動のせいだとわかった。高層住宅はこういうことがある。よく揺れるのだ。

06/26/金
朝8時前に起きてサッカーの中継を見る。会場はダラス・カウボーイズの本拠地。カウボーイズが強かったころの懐かしい思い出がある。同時刻にオランダがカンサスシティー・チーフスのホームスタジアムで試合をしている。相手は敗退が決まっているチュニジアなので大勝しそうで、日本は勝っても引き分けでも2位通過でブラジルと当たる。だから引き分けでよかった。負けるとフランスと当たる可能性が高いのでそれは避けたいということで、最後は攻めずに守りきって引き分けに持ち込んだ。さて、AMERICAN−FOOTBALLの話題に戻ろう。いよいよAカンファ西地区。ここはNカンファ北地区と同様の、「デッドヒートゾーン」になりそうだ。まずはボー・ニックスのブロンコス。昨シーズンは圧倒的な強さでトーナメントを勝ち上がり、ジョシュ・アレンのビルズを撃破した。だが死闘ともいえるその試合でボー・ニクスが足首を骨折。カンファの決勝戦に出られなかった。実力はペイトリオッツより上で、スーパーに出ていればシーホークスも撃破したのではと思われる。足首の骨折だからボー・ニックスはすでに回復しているだろう。今シーズンも地区優勝どころかカンファ制覇のトップ候補といえるだろう。このブロンコスにチーフスは勝てるのか。まずマホームズの怪我の方が重傷なので、開幕戦は控えのジャスティン・フィールズを先発させるかもしれない。9月を2勝2敗くらいでいければプレーオフには滑り込める。あとはトーナメントの山がどうなるか。浮き沈みの激しいビルズがブロンコスと当たって死闘となり、チーフスはペイトリオッツに楽勝、というような展開で決勝戦ということになればチーフスの勝ちもあるかなと思うものの、地区優勝はブロンコスで間違いない。2位はチーフス。ハーバートががんばってもチャージャーズは3位だろう。問題はドラ1のメンドーサを擁するレイダーズだ。昨シーズンはドラ1ウォードはダメだったが、レイダースには控えにカズンズがいるので前半戦はカズンズで6勝2敗くらいで行きそうな気がする。途中からメンドーサが先発になって調子が出ればプレーオフのダークホースになるかもしれない。ということはレイダースが3位でチャージャーズはビリかな。ビリのチャージャーズでもプレーオフ争いには加わると思われる。

06/27/土
突然だが天皇制について考えてみたい。日本という国はヤマト周辺の豪族(伴造と呼ばれていた)の集合体が権力機構を作り上げ、その象徴的な存在となったのが大王(おおきみ)と呼ばれる人物だったのだが、これは一種の神主のようなもので、妻や娘を巫女として神事を司っていた。その伝統は今日まで続いているので、ぼくは天皇制はこのままでいいと考えている。明治から戦前にかけては権力機構に利用されて軍事大国の象徴となっていたのだが、これは天皇の責任ではない。問題は明治以後の天皇制が、江戸幕府が体制維持の切り札として活用した儒教(とくに朱子学)の影響が明治維新の官僚たちにも継承されていて、天皇は男子でなければならぬという「男尊女卑」という時代遅れの思想を天皇制にも適用し、それが現在の政治家にまで踏襲されていることだ。天皇夫妻は最近、これまでにも親交の深かったオランダとベルギーの王室を訪問した。よく知られているように、どちらの王室も、皇太子に立てられているのは女子なのだ。その女子の皇太子と接して、天皇夫妻はどのような感想をおもちになったのか。古代には六人八代の女帝がいた。男尊女卑の江戸時代にさえ二人の女帝がいた。天皇は「象徴」なのだから、女帝であっても差し支えないし、むしろ巫女としての職務を加味すると、女性天皇の方が相応しいとさえいえる。学者のなかには、日本の歴史のなかには確かに女帝は存在するが、「女系天皇」は存在しないと主張する人がいる。厳密にいえばそのとおりなのだが、女系天皇があってはならないという厳格な思想があったわけではない。皇后が女帝になり、その子息が継承した場合、その子息の父親は天皇だから、「女系」にはカウントされないというだけのことで、母から息子への皇位継承はふつうのことだった。さらに平城遷都を慣行した元明天皇は、孫にあたる皇太子(のちの聖武天皇)が病弱であることを心配し、自分の娘が産んだ子どもたちを「皇孫」に認定し、皇位継承権があると詔勅によって宣言した。これは長屋王の子どもたちで、元明女帝の娘が母親だ。長屋王の父の武市皇子は天武天皇の長男だが、母親が卑母のため即位できず太政大臣として持統女帝を支えた。従って長屋王の子どもたちが皇位を継承したとすれば、母の母が元明女帝だということが根拠で、まさに「女系天皇」が誕生していたことになる。だがこの「女系天皇」は実現しなかった。聖武天皇を擁立する藤原四兄弟(妹が光明皇后)が長屋王の一族を虐殺(一族全員が自害したのだがそこまで追い詰めた)したからだ。この歴史的な事実について学者たちは誰も言及していない。そんなことよりも皇位継承について皇室典範の条項によって定めるといういまの制度そのものが、人権蹂躙だとぼくは考えている。確かに「天皇には人権はない」ということにになっているのだが、そのこと自体が人権蹂躙だった。だってあのお方は「人間」でしょう。人間だからこそ、家族を大切にし、国のために誠実に尽くそうとされている。ぼくは声を大にして言いたいのだが、誰を跡継ぎにするかは「家族」の問題だ。子ども将来については本人の考えが最優先されなければならないが、家族が家族経営の営みをもっているのであれば、親や親族もまじえて、家族の人々で後継者について考えればいいのだと思う。政治家や学者が口を挟むべきではないし、マスコミがあれこれ言うべきでもない。そういった人々は、天皇やその家族を「人間」と考えていないのだろうか。人間であれば家族を大切にしたいと思うだろう。皇室典範などという条項で人間の未来が左右されるようなことがあってはならないとぼくは考える。それに皇室にだけ「男尊女卑」の思想を押しつけるのは時代錯誤だし、世界に対しても恥ずかしいことではないだろうか。

以下は随時更新します


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