神功皇后06

2026年06月

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06/01/月
新しい月になった。先月は文士劇の稽古が連日続く時期があって忙殺されたが、公演は劇の内容もよくチケットも完売で大成功といっていい結果となった。全体の責任者をつとめていたのでとりあえずほっとしている。思いがけず主役のレット・バトラーを演じることになったのも、それなりにプレッシャーはあったのだが、やりがいのある役だったし皆さんに評価してもらえたので、いい思い出になった。13年ぶりに新しいパソコンを使うようになって途惑うことも多かったがいまは慣れた。このホームページも少し使い勝手が変わったのだが、もう日常の一部になっている。月が変わると新しいページを作ることになるのだが、難なくページを作ることができた。今月は文芸家協会の百周年の宴会や総会、SARTRASの新しい理事長を迎えての総会・理事会・懇親会、歴史時代作家協会の総会などの行事があって、いろいろとたいへんではあるが、文士劇が終わったので、気は楽になっている。『神功皇后』を先に進めるのと、『女が築いた日本国』の完結。それに「文芸思潮」に連載予定の『崇神戦記』の最終チェック。そうした作業をこつこつと先に進めていきたい。さて、文士劇がめでたく終わったので、このページでも哲学的なことを書いていきたい。この年に入ってから、三つのテーマについて考えてきた。宇宙の創成、人間の創成、「私」の創成。おおまかにいえばこの三つだ。「私」に関しては、このノートを書いている「ぼく」という人物がテーマになることがある。文士劇の稽古という、慣れない作業に加わったことで、「ぼく」というものについて、改めて考えることが多かった。「ぼく」というのは一種の器ではあるのだが、普段は生体機械としての自動的な反応について考えているだけなのだが、器そのものについて考えることはふだんはない。しかし3公演だけとはいえ、舞台の上に役者として立ってみると、器についても考えることになる。何しろ役柄が主役のレット・バトラーなのだから、まずは外見というものがある。後期高齢者であるからふだんは「ただの老人」ということでとくに外見について考えることはないのだが、衣装を着て髪型も整えてみると、外見というものも大事だと痛感する。役者としては声と滑舌だが、これには密かに自信をもっている。並みの役者よりちゃんとしゃべれると思っているし、声もいい。講演などもするし、大学では教壇に立っていたので、一人でしゃべり続けることには慣れているのだが、今回はスカーレット役の村山さん、辛酸さんとの対話があった。さらにレット・バトラーを演じなければならない。この人物はヤリ手の嫌われ者という設定なので、ふだんのぼくのキャラクターとは少し違っている。小学6年生の時に「ベニスの商人」のシャイロックを演じたことを思い出した。その時は指導の先生に細かいところまで指示を受けて「いやなやつ」というキャラクターを創出したのだが、その経験があるので、今回は自分で「いやなやつ」感を出すように試みた。始めはふだんの「穏やかでよい人」の殻が破れなかったのだが、途中から元気が出てきた。困ったのはこの人物は舞台から去る時に必ず大声で笑っていることだ。笑うというのはエネルギーがいる。とにかく肺活量が必要だし、いきなり笑うということは難しい。笑う直前の台詞の前に息を吸い込んで台詞を話した勢いのまま笑いにつなげていく。それは芝居がかった行為なのだが芝居なのだから仕方がない。とにかく大声で笑うことによって「いやなやつ」感を出せたと思う。「大声で笑う」というのは器としては大事なことだ。そして芝居の上とはいえ、自分が「大声で笑う」ことのできる器だということが判明した。これは新たな発見だといってもいいが、そんな発見をしても今後に活かせるわけではない。だがとにかく一つの認識として、「自分はいやなやつを演じることができる」器だということは認識できた。ぼくはそういう器をもって生まれてきた。そういうポテンシャルがあったということだ。何だか少し人間の幅ができたような気がしている。

06/02/火
新宿のスポーツマッサージ。ふだんは肩が凝っているだけだが、今日は全身が痛かった。文士劇の疲れが残っているようだ。もまれている間、核融合のことを考えていた。ぼくの子どもころにはすでに水爆の実験が始まっていた。核融合という言葉も聞いたように思うのだが、意味はわからなかった。高校生くらいの時にブルーバックスを読むようになって知識を得た。だがいまだに、なぜ核融合という現象が起こるのか、謎のままだ。謎といえば宇宙創成から陽子が発生し、やがて各種の元素ができるということ自体が謎また謎なのだが、高速で粒子同士がぶつかる状況があると、陽子は融合して重水素となり、ヘリウムになり、炭素や酸素など、重い元素が発生している。通常の衝突だと原子番号26の鉄のところで核融合はストップする。地球の大半が鉄でできているのは、あらゆる元素のなかで鉄がもっとも安定しているからだ。それでも世界には鉄よりも重い元素が存在する。現在の太陽でも、水素からヘリウムへの核融合が進んでいるのだが、鉄ができるようになるとその重さのために中心部に鉄の核ができ、重力によってつぶれ混んでいく。そと側の残り物の水素は爆発してふっとんでいき、重い核の内部で重力による核融合が進んでより重い元素ができ、最終的には超新星爆発を起こす。結果としては、重い元素が宇宙に散らばるのだが、やがて重力によって水素ガスが集まって第二代の太陽となって核融合を始める。重い元素はチリとなってその周囲を旋回しているのだが、やがて重力によってチリが集まり、惑星が誕生する……。というようなストーリーができているのだが、ほんまかいなと思うしかない。重い元素のなかでも鉛以上の元素はアルファー線やベータ線を放出して鉛になっていく。鉛以下の元素は安定しているものが多く、鉄が増えるということはないのだが、とにかく鉄が一番安定していることは確かだ。鉄よりも重い元素は核分裂や放射性物質の放出で鉄になろうとする。軽い元素は核融合によって鉄になろうとする。いずれの場合もその過程でエネルギーが放射されることになる。それは鉄の材料となる元素の総重量と、生成された鉄の重量を比べると、生成物の方がわずかに軽い。その質量が消滅したぶんがエネルギーに変換されるわけで、これは原爆でも水爆でも同じことだ。原爆は原子炉による発電によって平和利用できるようになった。で、水爆の方も平和利用できないかということで研修されているのだ核融合炉だ。核分裂の方はウラン235という同位元素を濃縮するだけで核分裂が始まる。爆発しないように発生した中性子を吸収する炭素棒などをブレーキとして、適度なスピードで熱を発散させてお湯をわかし、タービンを回すことで電力を得る。わりと簡単な原理だ。核融合の方はそうはいかない。水素の原子核同士を衝突させるためには高いエネルギーが必要だ。水素爆弾では「タネ火」として原爆を爆発させる。とても危険なものだ。核融合炉の場合は高速の陽子を巨大な電磁石で封じ込める。これは単に莫大なエネルギーを必要とするだけでなく、電磁石のなかで旋回する粒子をコントロールするために精密な技術が必要で、いまの人類の技術力がどこまで現実なものに仕上げていくかが、未知の領域となっている。原爆の場合は、ウラン235を濃縮すれば、自然に核分裂の連鎖反応が起こり、臨海を超えることがわかっていた。あとのウランを濃縮すればいいということだ。現在は硝酸ウラニウムという液体を遠心分離機でわずかな重力の違いを利用して濃縮する。昔はフッ化ウラニウムという気体を素焼きの壺みたいなもののなかを通して分離していた。これにはたいへんな手間がかかった。アメリカはその手間をかけたというだけのことだ。日本は原理はわかっていたが諦めた。ドイツは原子炉を先に作って廃棄物として大量の同位元素を得ようとしていたようだが、これにはもっと手間がかかる。核融合のいいところは、その技術を開発しても爆弾と仕組みが違うので戦争には使えないということと、危険な廃棄物がほぼ出ないということだ。使う材料も水素や重水素だから、濃縮ウランのような危険なものではない。さて、ぼくの生きている間に、核融合炉の試作品が完成するのか。量子コンピュータとどっちが早く完成するか。とくに長生きをしたいとは思っていないのだが、この結果は知りたいと思っている。

06/03/水
明け方に目が覚めてリビングルームまで行ってみた。窓の外が真っ白で何も見えない。霧におおわれたようだが、それだけ雨量が激しいのだろう。いつもの10時ごろに起きてニュースを見ると、善福寺川、神田川、目黒川などがレベル4の危険状態になっていた。学生時代に吉祥寺に住んでいたので、井の頭公園や善福寺公園は散歩のコースで、赤ん坊だった長男を乳母車に乗せてあちこちを歩いた。世田谷に引っ越す前に不動産屋の案内でいろいろなところを見て回った時も、神田川や善福寺川のそばの物件が多かった。結局、目黒川の少し上流の北沢川と烏山川の分岐点の近くに27年間住むことになった。いまもお茶の水に住んでいて、神田川のすぐ近くだ。このあたりは谷が深いので溢水の危険はないが、いつも散歩に行く水道橋のあたりは危険が迫っているのではないだろうか。今日は一日中、どこにも行かずに閉じこもっているつもりだ。

06/04/木
運転免許更新センターで免許証を更新する。幸いなことに徒歩15分のところにセンターがあるのでちょうどいい散歩になる。ここに到るまでには2つのステップがある。まず東陽町の免許センターで認知機能の検査を受ける。それから勤めていた大学の近くの武蔵境自動車教習所で実地運転の指導を受ける。これが3ヶ月くらい前だった。75歳以上の後期高齢者になるとこれだけの手続きが必要だが、2つの関門をくぐっているので今日は目の検査だけ。写真を撮ってすぐに新しい免許証が出てくる。あとは自宅で藤井くんの将棋を見る。なかなか先に進まない。今週は公用のない一週間で、今日は午前中に医者で検診を受け、免許センターにも行ったのが仕事。まあ、のんびりしていられるが、『女が築いた日本国』を仕上げてしまいたい。AMERICAN−FOOTBALLのことも少し気になり始めている。ラムズの攻勢がすごい。何しろチーフスのディフェンスから2人を引き抜け、ブラウンズから超大物もゲットして、ディフェンスは完璧。スタッフォードは健在で、控えQBもドラフトで補強。まったく弱点のないチームを作り上げた。昨シーズン、シーホークスに負けたのが不思議なほどだったが、ディフェンスの強化で今シーズンは完璧だ。マクダフィーを失ったチーフスだが、新人を補強して弱点はない。攻撃ラインも昨年よりは少しましになっている。問題はタイトエンドのケルシーの体力がどこまでもつか。それとレシーバー陣が弱い。ただランニングバックの補強ができたので、今年はランで前進できる。ワージーのスピードも活かせる。一ヶ月収監されていたライスも頑張るだろう。フリーになっているタイリーク・ヒルを戻すためにはサラリーキャップの壁がある。ワーシーがいるから大丈夫だろう。

06/05/金
何事もなし。イーグルスのワイドレシーバーのトッププレーヤーのブラウンがペイトリオッツにトレードされた。子どものころからのファンだったということで、移籍後は活躍しそうだ。そうなるとAカンファは昨年同様、ペイトリオッツとブロンコスの新鋭QBの対決に、ベテランのQB、ビルズのジョシュ・アレン、レイブンズのラマー・ジャクソン、ベンガルズのバロー、チーフスのマホームズが絡むということになりそうだが、ブラウンを擁するペイトリオッツの陣容を見ると、チーフスのレシーバー陣の弱さが際立つように感じられる。スミス=シュスターもハリウッド・ブラウンもいなくなっているので、もう一人、長いパスをキャッチする人材が必要だ。短いパスはライスとケルシーおよびランニングバックに任せればいいので、タイリーク・ヒルのような足の速いレシーバーがほしい。3年目のワージーがどれだけ成長しているかが楽しみだが、一人だと警戒される。もう一人、遠くまで走っていけるレシーバーが必要だ。少し前に核融合炉の話を書いたが、巨大な電磁石でプラズマを閉じ込めるための技術進歩はあと50年ほどかかりそうだ。石油の値段がもっと上がるとか枯渇するとかで、いよいよ石油が使えなくなれば、核融合炉に投資するしかなくなるのだろうが。核分裂の原子炉もウラン235が枯渇しそうで心許ない。AIなどの巨大な電力を必要とするシステムが増大すると、たちまち電力不足になってしまう。とにかくぼくが生きている間に、何か画期的な状況が見えてくるといいのだが。自分が生きている間ということでいえば、日本一背の高いビルの建設が進んでいる。八重洲のバスの降車場の向かいのあたりに建設が始まっていて、その建設現場がぼくのいる高層住宅からよく見える。工事が始まってからかなり長い時間、地下を掘っていたようで、何の進展も見られなかったのだが、地下が完成したようで、上物の構築が始まった。と思ったら見る間にどんどん伸びていく。もうすぐ隣のビルと肩を並べそうになっている。麻布台ヒルズや虎ノ門タワーは距離があるのでそれほど大きく感じないのだが、この新しいビルは目の前にあるので、すぐに視界をおおうようになるだろう。まあ、見ているぶんには楽しい。

06/06/土
プロ野球の巨人の監督が娘に暴力を振るったところ、彼女がAIに相談。その指示に従って児童相談所に連絡すると、児相は警察に通報。監督は逮捕されて連行された。翌日、監督は辞任ということになった。この「事件」は今後にも尾を引く問題点をはらんでいる。誰がよくないのか。何が問題だったのか。暴力を振るった監督はアウトだ。家庭内暴力というのは、よくあることではあるのだろうが、巨人の監督という公的な立場の人が娘を投げ飛ばすなどということがあってはならない。しかし世間の問題意識は別のところに向かっている。娘がAIに相談をしたこと。AIの指示に安易に従ったこと。次に児童相談所が警察に通報したこと。さらに警察が家庭内暴力に介入して即刻逮捕したこと。逮捕したことを公表したこと。巨人のフロントが監督を辞任させたこと。要するにこの「事件」は誰が悪いのかということにになると、「監督」「娘」「AI」「児相」「警察」「巨人のフロント」と容疑者が多様だということだ。ぼくは「犯人」はAIだと思っている。AIというものが存在しなければ、AIというものがこれほど普及していなければ、AIの無料版が提供されていなければ、このような問題は生じなかった。そしてこの「事件」に関して、AIは責任をとらない。AIを無料で提供した会社も責任を問われない。AIを使うのをやめようという運動が生じることもない。責任を取らされたのは監督と、監督を辞任に追いやったと世間から追及されている娘ということになる。家庭内暴力の被害者であるはずの娘が、監督辞任の責任者にされてしまう。ここでも、AIさえなければ、という結論になるのではないか。スペインにいる医学部の孫が、有名な文学作品を読んでそこにある医療的な問題点を論じよ、という課題を与えられて、AIに相談したところ、ドストエフスキーの「罪と罰」に関するそれらしい論文が出てきた。そこにはもっともらしい論旨が展開されていたのだが、孫は不審に思った。孫は「罪と罰」を読んだことがあったので、作品の内容を知っていた。AIの論旨は、作品とはまったく関係のないもので、ただ「罪と罰」というタイトルから思いついたような議論をしているだけだった。それで孫が再度質問すると、AIは正直に、さっきの論文はまったくの嘘でした、と告白した。AIは嘘をつく。そんなものを無料で普及さぜているというのは犯罪ではないだろうか。家庭内暴力が問題視されるようになったのは、ごく最近のことで、警察は「民事不介入」という態度をとるのが常識だった。しかし家庭内暴力が急速に増えたので、児相は相談を受けるとただちに警察に通報し、警察はただちに出動して暴力が確認されれば逮捕する。そういう最近の傾向をAIは知らずに、無責任なアドバイスをしたということだろう。「友人から高収入のバイトがあると誘われたが従っていいだろうか」「息子が仕事でミスをして埋め合わせのために多額の借金を申し出てきたが金を渡すべきだろうか」「知人が事業に失敗して金融機関から借金する必要があって保証人になってくれと頼まれたがハンコをついてよいか」こんな質問をしたら、AIはどんな答えを出すだろうか。いずれにしてもAIは責任をとらない。無料のAIを提供している企業も責任をとらない。そんな危険なものを野放しにしておいていいのか。親が暴力を振るえば児相に相談するというのは、正しい判断かもしれないが、親が逮捕されて結果としてその家の経済が破綻したり、子どもが児相という場所にしばらく監禁状態になってしまうこともある。そういう結果が可能性としてあることを踏まえて熟慮する、ということをAIはしない。ただ一人暮らしの老人が寂しさに耐えかねてAIを話し相手にする……というようなことがあるのは仕方がないことかもしれない。老人がAIと接するのは半ば墓穴に入っているようなものだ。ただAIを話し相手にしているのは、若い人に広まっているようど。チャットGTPは、チャッピーという愛称で呼ばれて、それで話が通じるようになっているらしい。AIというものが話題になり始めたころ、いずれAIが小説を書くようになるのか、という問い合わせが文芸家協会に来たことがある。「いまは議論する段階ではない」とぼくは答えた。その考えはいまも変わらないが、新聞で投稿俳句の選者をしている方からは、あまりにも出来のいい投句は、AIではないかと疑う必要があるというのが、俳句の世界でも広まっているようだ。ぼくも大学の教員をしていたころ、学生のレポートに怪しいものがあれば検証したことがある。いい文章だと思われるところを抜き書きしてグーグルなどで検索すれば、ただちにその論文が出てくる。ネットに出ている論文をコピペすれば、すぐにバレるということを学生は知らないのだろうかと思った。いまは怪しい文章があれば、AIに相談すれば、ただちにそれはAIが書いたものだと判定してくれるだろう。

06/07/日
昨日はAIのことを考えてみたが、ぼくは自分ではAIを使わない。余命も短いのでそんなものに時間をとられたくないと考えているからだが、無料AIのダウンロードのやり方についてはネットで調べてみた。わりと簡単そうだ。知人のなかには有料AIを使っている人もいる。出席した会議の議事録が、AIでまとめられているのが送られてくることもある。議事の論旨が男女の会話に変換されて音声で伝えられるというようなものにも接した。AIは便利だが、何か違う、という感じがつきまとっている。昭和の人間だから仕方がないのかしもれない。話はかわるか、ネットのニュースサイトはよく見るので、断片的な情報が入ってくる。素粒子がヒモの振動だという仮説があるが、ごくシンプルな数学上の定義から必然的にヒモの振動が導かれるという理論が提出されたそうだ。これを聞いて直感的に、そういうこともあるだろうという気がした。ハイゼンベルクのマトリックス(行列)の数式と、シュレーディンガーの波動方程式が、数学的には同値だという説明を聞いたことがあるが、これも、そういうこともあるだろうと思うしかない。素粒子のような小さいものは、目では見えない。顕微鏡でも見えない。見えないものをどうやって認識するかというと、素粒子が動いた結果が、ウィルソンの霧箱のように目で見える軌跡になることがある。あるいは大量のデータがあれば、そこから確率論で何らかの数式モデルを導き出すことがある。そういうおおざっぱと思われる観測結果と、数式モデルに整合性があれば、原理そのものは見えなくても、数式モデルには何らかの意味があるのではないかと考えられる。超ヒモ理論と呼ばれているものは、ヒモそのものの実態はわからないものの、その数式モデルに何らかの意味があると考えられているのだろう。素粒子の存在は不確定だ。不確定だから何もわからないかというと、ヒモが振動しているという数式モデルをあてはめると、何らかの整合性が感じられるということだろう。ではそのヒモとは何なのか。どんなヒモなんだ。というようなことを入ってもしようがないのだが、素粒子が「確率の雲」のなかにいる、というのと、ヒモが振動している、というのでは、似たようなものではないかと直感的には思うのだが、数学モデルとしてはヒモの方が整合性が高いということだろう。まあ、どうでもいいことではあるのだが、とにかく素粒子は「小さな粒」ではなくて、縄跳びのヒモの回転が速くなって見えなくなってはいるが、手を伸ばせば触れることができる、というようなものだということは直感的に理解できる。そして、確率の雲が現実的な実態と同値であるように、ヒモは確かに実在すると考えてもいいのだろう。これと量子コンピュータとがどのように結びついてくるのか、頭のなかが混乱しそうだが、ヒモというのは実在のヒモではなく、不確定な仮想のヒモだということであれば、そういうものかと思うことは可能だ。で、突然、話は変わるのだが、文士劇でレット・バトラーを演じたことは、ぼくという生体機械に何らかの影響をもたらした気がする。ぼくは子どものころ、児童劇団に入っていた。姉も中学から大学まで演劇部に所属していた。そして姉は本物の俳優になった。ぼくが俳優になってもおかしくなかったのではと思いつつ、ぼくは小説家になった。ただ不確定な可能性としては、シュレーディンガーの猫のように、「小説家になったぼく」と「役者になったぼく」とは、可能性としては同値であったはずだ。ただこれはあくまでも仮想の理論でしかなかったのだが、今回、紀伊國屋の舞台の上でレット・バトラーを演じてみて、それが仮想のものではなく、確かにありえたかもしれない現実の一端だと実感することができた。ただし何しろ後期高齢者なので、体はきつかった。三回の公演が限界だった。プロの役者は一ヶ月ほど公演し、地方に巡業に出ることもある。昔、姉は「オンディーヌ」の妖精を演じて、日本国中を回っていた。そういうのを見ていたので、自分は小説家になってよかったと思っていたし、いまもそう思っている。しかし今回の体験は有意義だったし、共演者と仲間意識みたいなものができたことも貴重な体験だった。小説家は編集者および顔を合わせることのない校正者とはチームプレーなのだが、演劇は共演者の顔が見えるので、楽しい体験だったし、共演者だけでなく、衣装、メイク、小道具、制作進行などのスタッフとも、苦労を共有することができた。それを支えてくれた文芸家協会のスタッフにも感謝している。

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