概説 | 江戸崎本道が突き抜けている。街道の南側には土橋状の畝堀(仮称)が5ヶ所ほど並んで遺存している。この畝堀状のある堀は、大改造の痕跡が判然としているものであり、これは、土塁群構築以前に掘られた薬研堀で街道閉塞用のものと判断される。改造後のこの堀はやや幅の広い畝状のものを、梯子の格(こ)のように等間隔に連ねて造られている。当時、この堀底には槍襖の装置が施されていたものと考えられる。北側の土塁は街道に接した部分に、前後左右を監視できる一段と高い物見塚を構築してあった。堀は陥穴まで備えた薬研堀であった。[『阿見町史』より] |
目印は割目遺跡の石碑のある丁字路 |
訪問記 | [1998/04/07]この付近ということは確かだが、ものすごい藪だった。 [2000/11/05]以前見に行ったときよりも草刈りがなされていたので竹薮をかき分けて中まで入ってみた。すると、かの山中城の一の堀の畝堀、とまではいかないけれど明らかに畝堀が確認できた。過去の調査では、槍襖や陥穽(おとしあな)の痕跡も発見されたとのこと(『阿見町史』)。仕掛けの多い土塁だったらしい。土塁の山の部分は開墾時に削り取られているそうだ。 |
所在地 | 稲敷郡阿見町大形字割目。飯倉交差点と一本松交差点のほぼ中間やや飯倉より。割目遺跡の小さな石碑がある丁字路。写真のカーブミラーの左脇から用水施設の上を行くとすぐに畝堀がある。 |
参考書 | 『阿見町史』、『阿見町史研究第6号』 |