脇本館

概説道南十二館のひとつだが、館のあった場所が分かっていない。『知内町史』には「脇本館がどこにあったのかを示す史料はない。しかし、館及び住民の生活基盤が鮭によっていたとすれば、当然河口近くにあったことが想定される。しかも脇本館の名の如く、脇本地域にあったとすれば、現在の涌元町内の西側の山間部がこれに相当する地域と考えられる。」とし、また『新しい道史通巻18号』(『新北海道史』編集機関紙)では「脇本神社の左側、津軽海峡に面した断崖の上に、二段の郭構えを発見した。さらに大砲山にと続いているが、その接点に2ヶ所の土塁跡が発見され、脇本館であることが発見された。」としているが、館を形成する場所としてはやや問題があり、さらに詳細な調査が必要である。[『知内町史』より]
 八巻孝夫氏も『北海道の館』(『中世城郭研究第5号』)の中で、「91年春に筆者も同地点を調査したがかなりの急斜面であり、館としては全く不向きである。既に『日本城郭全集』の脇本館の項で竹村氏が指摘しているように、土塁も日露戦争の砲台に伴う塹壕の土塁と考えられる。このことから、この推定地は脇本館とはいえないであろう。」と書いている。
涌元小学校の場所は推定地の一つ
その他の写真
  1. かつては脇本館跡といわれた涌元漁港の西側(トンネルの上)の台地。奥の山は「兵隊山」
訪問記[2001/07/02]「脇本館の場所は確定していない」と書かれていたのを見たことがあったので、知内町役場で尋ねてみた。偶然歴史研究会の方がいて以下のようなお話を聞けた。(1)道南十二館の中で唯一脇本館が全く場所の見当すらついていない。(2)調査に来た大学の先生がここだと言った場所は、かつて燃料材の切り出しの後、食糧難時代にイモ畑になって地形の改変がなされた所なので館跡だというのはどうかな、と思っていた。その後、京都大学の学生が調査に来て、ここは違うと言っていた。(3)市街地に箱館戦争時代幕府脱走軍が砲台を置いたという所はある。ただし、市街化によって現在はなにもない。(4)また別の場所での道路工事中に人の頭部が出土したことがあったが、戦で負けた後、敵に首が見つからないように埋めたものだろうか。(5)海岸に船を引き上げる神楽桟を作るために穴を掘ったら、そこから鏡2枚と焼物の破片がたくさん出た。かつて、ここいらに人が住んでいたことの証拠だと思う。
[2003/08/11]前回訪問したときに耳にした「涌元砲台」について知りたくて「郷土資料館」にお邪魔した。前回別の方から聞いた話も含めて再度確認:(1)上記概説に書いたように、かつて大学の調査で涌元漁港西側台地の濠を「脇本館跡」の遺構としたが、これは日露戦争当時に日本軍の監視所が置かれたときのものだと判明し、「脇本館跡」説は現在のところボツ。その奥の山を「兵隊山」という。概説の「大砲山」というのは「兵隊山」の間違いだと思われる。(2)場所的には涌元小学校の場所が有力。その少し下、股瀬川わきで壺に入った古銭が見つかっている。これは志海苔古銭とほぼ同時代かやや新しい時代のもの。(3)砂浜の工事中に鎌倉期のものと思われる銅鏡が2枚見つかっている。一枚は所在不明。(4)市街地部での道路工事中に地中より珠洲焼きの擂鉢をかぶせた頭骸骨が見つかっている。擂鉢は現存するが頭骸骨の所在は不明。
所在地北海道渡島支庁知内町涌元。
参考書『北海道の館』、『道南十二館の現状』、『知内町史』