訪問記 | [2004/05/24]市史編纂室では『国別 城郭・陣屋・要害・台場事典』の解説とは異なり、「最初天保7年に台地下に造られたが、その後安政3年に台地の上と下2段に造り直された」と聞いた。『写真集那珂湊市史』No91写真には砲台内部と砲門が写っている(この写真のキャプションには東塚原の砲台と書かれているが間違いで、和田台場だそうだ)。台場跡には測候所があったらしいが、現在は駐車場になっている。江戸時代の絵図を見ると台場前面は石垣になっていたようだが、現在はコンクリートの擁壁で覆われてしまっている。昭和8年の『那珂湊漁港修築計画平面図』には台地上の台場跡がはっきりと描かれている。この台場は祝町向洲台場(大洗町)と那珂川河口の南北に相対して位置し、連携して那珂川河口を守備することを目的としていたのだろう。
[2004/06/14]今日は『那珂湊の地名』に載っている御台場(砲台)の古絵図と解説地図を参考にして探しに行った。天保年間に造られた水戸藩最初の和田低台場は深川すみ子後援会駐車場の場所に間違いないと確信した。[と、書いたが、その後別の古絵図を見てこの確信を撤回することにした。ここはいつの時期だかに台地を崩して土取をしたということもその後聞いた。(2004/09/02)] |
所在地 | ひたちなか市和田2丁目。天保年間に造られた水戸藩最初の和田低台場は深川すみ子後援会駐車場の場所。安政年間に造られた台地上の高台場は保健相談センターの南側、水門(みなと)帰帆の碑の東側駐車場一帯。 |
参考書 | 『国別 城郭・陣屋・要害・台場事典』、『写真集那珂湊市史』(昭和49年)、『那珂湊漁港修築計画平面図』(昭和8年)、『那珂湊の地名』 |