概説 | 土浦城といった場合、江戸時代に整備された近世土浦城を指していると思ってまず間違いない。そして近世土浦城と現在の亀城公園およびその周辺市街地との対応関係からある程度の復元も可能だと思われる(『土浦城下の遺構めぐり』をご覧下さい)。しかし、中世の土浦城となると急に霞がかかってしまう。小田氏、信田氏、菅谷氏などが居た中世土浦城はどこにあったのか?となると諸説入り乱れているというのが実際の所だ。近世土浦城の中心部とほぼ重なっていたという説の他に、現在の中城付近にあったという「中城館」説がよく取り上げられている。ここではもう一つの説として「信田氏の居館」説を紹介したいと思う。
寺嶋誠斎『土浦市備考』第1巻30頁に「現二高敷地は寺嶋家伝に信田氏の居館趾と伝へられ」とある。この言い伝えの真偽は今後検証するとして、土浦二高を含む立田町一帯に信田氏館があったという説をここでは記憶しておきたいと思う。
近世土浦城立田郭=中世土浦城説:立田町一帯は享保8(1723)年以降、土浦城の立田郭として整備されてきたが、もしかしたらここが土浦城の前身である「中世の土浦城」の場所だったかも知れないと思わせる史料がある。享保8(1723)年に藩士の増加による屋敷地不足を解消するため立田郭を築造する際に申請を行った。それに対する幕府から土屋氏への返答文書の一部に以下のような文がある。常陸国土浦城外乾方、自古来立田郭与相伝候曲輪跡、当時田畑ニ成候。此場所堀土手之形末並木等有之候。此曲輪構之跡用、堀・土手・並木等差置、連々築地取立、侍屋敷且又長屋等屋作被申付け度之由(以下略)。大意は「古くから立田郭と伝えられる曲輪が有ったが、享保8年現在では堀・土塁・松並木が残る他、田畑となっている。この曲輪の堀・土塁等をそのままにしつつ、「築地」を設けて侍屋敷や長屋を築きたい」。享保8年段階ですでに伝承となり田畑となっていた「立田郭」とはもしかしたら中世の土浦城の場所だったのではないか。さらに有利な史料として、「常州土浦城図」(正保2(1645)年)では土浦城の周辺はほぼ全て深田と書き込まれているが、立田郭付近のみ田畑と記載されている。これは土浦城整備がまだ立田郭付近までおよばない近世初期の時点ですでに周囲よりも明らかに標高が高かったことを表しており、中世にはここに城館を置き易かったと思われる。最後に、前出の『土浦市備考』20頁「土浦城近傍絵図」立田御屋敷北側に「弾正畑」とある所を寺嶋誠斎は、菅谷弾正治貞邸の名残と推定していることを付け加えておく。[『土浦城の構造』、『発掘された土浦城』を参考にした] |