戸崎城

概説 戸崎にあり、城主は小田氏家臣戸崎大膳亮と伝えられている。城の起源は明らかでないが、戸崎大膳が居を構えたのは応仁の乱(1467〜1477)の頃ではないかと思われる。そして常総の二大勢力であった小田氏と佐竹氏との対立抗争には小田氏の有力な武将として活躍した。
 小田氏は十五代氏治(入道して天庵)の世にいたり、佐竹氏やそれに与する柿岡城の梶原氏・片野城の太田氏らの侵略をうけ、次第に衰運の一途をたどった。特に佐竹義重の攻撃による小田城・藤沢城をめぐる激しい攻防のあった天正元(1573)年は出島における小田氏の勢力も例外でなく、佐竹の手兵の攻撃をうけ八月戸崎城は陥落した。
 また天正五(1577)年戸崎城回復の戦があり大膳ら討死という説もある。天正六年に氏治が土浦城主菅谷範政の助けで木田余城を一時回復しているのでうなずけなくもない。しかし、結局は佐竹氏の支配下に入り文禄四(1595)年佐竹氏の家臣飯塚兵部少輔が管理するところとなったが、慶長七(1602)年佐竹氏の秋田国替えにより廃城になった。[『出島村史』より]
本丸を東側から臨む。一面の低湿地に蓮田が広がる。
    その他の写真
  1. 本丸下の帯郭
  2. 本丸と天神を隔てる堀切
  3. 二ノ丸と中城間の堀切
  4. 八坂神社裏(地区農村センター)の土塁
訪問記[2002/9/23]本丸周辺は畑や宅地となってかなり改変されているが、それでも城の雰囲気をかなり残している。本丸の南約800mにある八坂神社および農村センターは戸崎城の出丸と考えられているらしい。遊具の周囲に円形に囲う土塁が残る。
所在地霞ヶ浦町大字戸崎本丸
参考書『出島村史』、『重要遺跡調査報告書II(城館跡)』