豊田城

概説 遺構に関しては昭和30年頃の小貝川改修および耕地整理・基盤整備事業によって遺跡全域が削平されたことにより「今日ではすべてが湮滅した」。豊田氏の始祖四郎政基(政幹)は、後三年役(1087)の行賞によって下総豊田地方を安堵された。当初の居城は、石下町若宮戸及び向石下にあったと伝える。のち台豊田を経て東豊田の地に豊田城を築いたのは第11代善基と説かれ、時代は鎌倉の建長以前と推定されている。下って戦国期に豊田氏は筑波の豪族小田氏に従属した。したがって小田氏の衰退は同時に豊田氏の没落を早め、ついに下妻の多賀谷氏の侵略に屈した。始祖以来520年、第22代治親の天正3(1575)年のことである。その後多賀谷氏の支配下に置かれたが、慶長6(1601)年の多賀谷氏の滅亡とともに廃城に帰したと思われる。なお、豊田城の歴史には多くの異説がある。[『重要遺跡調査報告書II(城館跡)』より]
小貝川堤防の城址碑から中城方向を望む
    その他の写真
  1. 龍心寺裏側の土塁
訪問記[2003/01/07]昭和61年8月の台風10号による決壊口碑の近くの堤防上に城址碑はある(もうひとつの城址碑はそこから西へ降りた高圧線鉄塔付近にある)。その西側一帯が中城といわれる豊田城の中核部分と思われる。微高地といえばいえそうだが小貝川改修と耕地整理・基盤整備により周囲とあまり高低差はなくなっている。かつては土塁があったようだ。中城の西側には堀切もあったらしいが面影はない。集落内の龍心寺裏側に土塁があるが城のものかは分からなかった。
所在地結城郡石下町本豊田。
参考書『石下町史』、『重要遺跡調査報告書II(城館跡)』