峠下土塁

概説 明治元(1868)年10月20日、鷲ノ木(現在の森町鷲ノ木)に上陸した旧幕府軍は峠下から箱館へ向かう主力部隊と砂原、鹿部から川汲峠を越えて箱館へ向かう土方隊とに分かれ進軍した。24日、主力部隊を率いる大鳥圭介は部隊を二分して、大野村と七重村へ進軍し新政府軍を敗走させた。この敗戦により、箱館府は青森へ撤退し、26日、大鳥隊は五稜郭へ無血入城する。
 現地説明板によると、この峠下土塁は「旧幕府軍により構築されたと考えられている」そうだ。
峠下の庚申塚(松の木のあるところ)
    その他の写真
  1. 新政府軍墓地。箱館戦争勃発の地碑もある
  2. 土塁の上から:幅は1m弱、長さ約500mの直線土塁
訪問記[2002/7/8]新政府軍墓地裏からは雑草がものすごくて土塁へ近づけなかったので庚申塚の方へまわってその脇の斜面を登ってみた。庚申塚の柵のすぐ裏を土塁がまっすぐ走っている。幅は狭く60cmほどしかなく、山側に深さ50cmほどの堀が並行している。かつてはもう少し深かったとしても、それでもかがんで身を隠す程度の深さしかなかっただろう。急ごしらえの施設だから仕方ないのかもしれない。それを考えると江戸崎城周辺の戦国土塁の頑強さがいっそう際だって見えてくる。
所在地渡島支庁七飯町字峠下。「北海道昆布館」の北1kmあたりに北電七飯発電所がありその前に峠下の史跡説明板があるのでそれを参考にするとよい。
参考書『箱館戦争写真集』