手野城

概説西側は常磐線を通すため、南端は土を取ったため一部崩れている。
「新編常陸国誌」では朝重の子知継(重継の誤りか)が手野に住んだとする。重継は「吾妻鏡」では寛元元年(1243)から弘長3年(1263)まで、常陸修理亮の称で随兵として登場する。「小田氏系譜」は田野氏の祖で、下野芳賀郡田野郷に住むとするが「常陸志料」では手野ではないかとしている。「尊卑分脈」では母を田野氏としている。鎌倉末期に貞宗と嗣を争ったという知貞は手野に住み、手野氏や坂(佐賀)氏の祖となったが、「常陸志料」は重継のあとをついだのであろうとしている。戦国時代には中根氏の居城で、城主として万右衛門主膳知矩(永禄元没)、万大夫主税(文禄3没)の名が伝えられており、小田氏の重臣であった。堀をはさみ、、南本丸には城主、北外丸には家臣が住んだのであろう。城の歴史を伝えるものはほとんどない。[『土浦市史』より]
西側(木田余東台5丁目)からの遠望
    その他の写真
  1. 堀切手前で道は食違いになっている
  2. 本郭と二の郭(手前)を仕切る堀切と土橋
  3. 本郭南端から土浦方向を望む
訪問記[2002/5/5]法光院裏手の畑で地元の方に場所を聞いたところ、「わたしはよく分からないのだけど」と言いながら南端部まで案内してくれた。歩きながら「これは本丸と二の丸の間の堀ですよ」と逆に説明すると驚きながらも喜んでくれた。現在南端部は土取りのため断崖になっているが、「わたしは子供の頃この下でよく遊んだが、そこはタテシタと言っていた」とよい話を教えてくれた。本郭の東側から南側にかけておよそ6m幅の帯郭が巡っている。
所在地土浦市手野。法光院裏手から南西にかけての台地
参考書土浦市史