田土部城

概説 ここにはじめて館を築いたのは、信太左衛門尉忠貞、入道して見性と名乗った人である。戦国時代には、小田政治の次男(庶長子ともいう)信濃守政秀が居館とし、戦争にも絶えうるように整備した。城の中心部の館山が城主の居所、北側の城戸屋敷や東側の宿に家臣団が住んでいたと思われる。南側は登城・登城口と呼ばれるので、大手口に当ろう。「田土部文書」には、政秀の家臣として酒井・桜井・石田・宮本らの執権の外、旗小頭・長柄小頭・諸士・組の者・大工などがおり、諸士の一人中里氏の氏寺が福生院、政秀の妹妙栄の居所跡が比丘尼屋敷といわれる所だった。[『新治村史』か?]
地区公民館西側の土塁と水堀跡
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訪問記[2003/04/07]地元のご夫婦に話を聞いた。現在地区公民館がある場所はもとは2つの寺があったが、その後部落の共同の養蚕小屋になった。南北の水堀を昭和35年に暗渠にするまでは目と鼻の先の養蚕小屋へ行くのにも大回りしなくてはならなかった。西側を流れる桜川の水を堰で止めて部落内の水堀へ引き入れ部落反対側(東側)の水田まで導水していた。地区公民館のある辺りを「登城口」、その北側を「城戸屋敷」と言う、などのお話を聞けた。
所在地新治郡新治村田土部。地区公民館西側に土塁・水堀が残る。集落の所々に土塁や堀跡が残存。
参考書『茨城県遺跡地図平成13年度版』、『村史千代川村生活史 第一巻自然と環境』