玉造城

概説 別名、轟城ともいう。梶無川東岸の比高約20mの台地先端部にある。東側は台地続きだが、残りの三方は湿地に囲まれた要害の地である。比高15mほどの台地上を腰曲輪として、その上に高さ5mほどの曲輪が並ぶ連郭式城郭である。
 嘉応年間(1169〜71)、常陸大掾一族の行方宗幹(景幹)が築城し、治承年間(1177〜81)に景幹の四男四郎幹政が玉造に配され玉造氏を称するようになった。以後、その子孫が歴代の城主となる。戦国期には行方一族の間の内紛や小田氏、佐竹氏、江戸氏など常陸の諸氏の勢力拡大にからむ思惑から佐竹氏の傘下にあったにも関わらず、天正19年(1591)2月9日、重幹は南方三十三館の諸氏族と共に佐竹義宣に誘殺(宇垣伊賀守に捕らえられ、正伝寺(日立市)で武将として切腹)され玉造城は落城、以後佐竹氏の支配下に置かれた。
 玉造城の東北東約1.7kmの地点にある街道と交叉する堀と土塁は三併堀と呼ばれ玉造城へ向かう街道を監視および閉塞していたものと推測される。[『図説茨城の城郭』より]
西側の郭(搦と呼ばれる)の切岸
その他の写真
訪問記[2005/11/21]搦という地名の残る主郭と思われる西側の郭、写真のように切岸は美しいのだが内部は草が伸び放題で周辺部の様子がまったく分からない。連郭式に並ぶ主郭、II郭、III郭のさらに北側の斜面に横堀があり、見る値打ちがある。ただし、孟宗竹の倒木が凄まじいので1度行けば十分だろう。
所在地行方市玉造字堀の内
参考書『玉造町史』『行方郡玉造城跡本丸発掘調査報告書』 『玉造城跡』『図説茨城の城郭』