概説 | 旧名、下妻城。もと結城氏の重臣であった多賀谷氏によって、15世紀の半ば(寛正年間)に築城されたといわれた。その後、多賀谷氏は谷田部、水海道以南まで領地を拡大したが、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いに参陣しなかったため、城地没収のうえ追放された。明治22年(1889)本丸跡の台地に多賀谷氏遺跡碑が建てられるまで下妻城と呼ばれた。現在、多賀谷城跡公園となっている。[『下妻の文化財(下妻市教育委員会)』より]
多賀谷城の築城は、戦国時代、康生元年(1455)多賀谷氏家によって開始され、6年後の寛正2年(1461)に完成したといわれている。多賀谷城は東西に沼を控え、南方が湿地帯という地理的条件を利用し、北方に対する備えは、土塁、濠など七重に備えを敷き、城域は旧下妻町全域に及ぶ広大なものであった。城は本丸を中心に、その周囲を北から東に、北城、虚空蔵曲輪、帯曲輪、三の丸などが配置されている。さらにその周囲には、本宿、平沼曲輪、南館が配置され、ここに家臣を集住させることによって防衛機能を持たせている。このように防備機能が北方に集中しているのは、地理的な条件はもとより、当時の敵対勢力である、結城氏や水谷氏が北方に存在していたことにもよる。[下妻市ふるさと博物館「多賀谷城模型」の解説より] |