多賀谷城

概説 旧名、下妻城。もと結城氏の重臣であった多賀谷氏によって、15世紀の半ば(寛正年間)に築城されたといわれた。その後、多賀谷氏は谷田部、水海道以南まで領地を拡大したが、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いに参陣しなかったため、城地没収のうえ追放された。明治22年(1889)本丸跡の台地に多賀谷氏遺跡碑が建てられるまで下妻城と呼ばれた。現在、多賀谷城跡公園となっている。[『下妻の文化財(下妻市教育委員会)』より]
 多賀谷城の築城は、戦国時代、康生元年(1455)多賀谷氏家によって開始され、6年後の寛正2年(1461)に完成したといわれている。多賀谷城は東西に沼を控え、南方が湿地帯という地理的条件を利用し、北方に対する備えは、土塁、濠など七重に備えを敷き、城域は旧下妻町全域に及ぶ広大なものであった。城は本丸を中心に、その周囲を北から東に、北城、虚空蔵曲輪、帯曲輪、三の丸などが配置されている。さらにその周囲には、本宿、平沼曲輪、南館が配置され、ここに家臣を集住させることによって防衛機能を持たせている。このように防備機能が北方に集中しているのは、地理的な条件はもとより、当時の敵対勢力である、結城氏や水谷氏が北方に存在していたことにもよる。[下妻市ふるさと博物館「多賀谷城模型」の解説より]
城址碑(土壇は後世のものらしい)
訪問記[2002/1/8]砂沼西側にある「ふるさと博物館」で公開されている多賀谷城模型を見に行った。当時の水城の様子が分かりやすく再現されていた。
 模型を見ていると『虚空蔵曲輪について何か分かるかと思って来たんだが』と初老の方に声をかけられた。『下妻の少し北に住んでいるんだが、家には代々虚空蔵様が祀られていて村では自分の家にだけある。毎年9月13日が祭礼日で、戦争以降は途絶えてしまっているが、その日には村中から女性たちがお参りに集まって来たものだ。代々の言い伝えでは先祖は多賀谷氏に仕えていたが天正13年の小田氏との戦に負けた後侍をやめて土着したと聞いている。』また、『下妻小学校へ通っていた当時、今の関東鉄道常総線のところは田圃でその向こうに本丸の崖が立ち上がっているのが見えた。』とも言っていた。
所在地下妻市本城町2。下妻市役所の西向かいの多賀谷城跡公園。
参考書下妻の文化財(下妻市教育委員会)