宍倉城

概説 宍倉城は、永享年間(1429〜1440)のころ野田遠江守の所管するところであった。その後、菅谷氏の支配下となり文亀年間(1501〜1503)には菅谷隠岐守貞次が城主であった。菅谷氏は信太氏一族で、小田氏の有力な武将だった。天文14〜15(1545〜1546)年の河越城攻めでは上杉方に参陣した小田政治の陣代として「代官菅谷隠岐守」の名が見える。天正元(1573)年7月佐竹氏の攻撃を受けてその軍門に降った。文禄元(1592)年の豊臣秀吉の朝鮮出兵には佐竹義宣に従って出陣した武将の中に菅谷隠岐守憲景の名が見える。文禄4(1595)年に佐竹氏の家臣山田刑部が城主として移り住んだ。慶長7(1602)年佐竹氏が秋田へ国替えになったとき菅谷氏も秋田へ移り廃城となった。[『重要遺跡調査報告書II(城館跡)』より]
本丸は畑地だがかなり荒れている
宍倉城址図(本丸に設置)
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その他の写真
  1. 本丸南側(小字館下)の内堀は耕地になっている
  2. 本丸南端(このすぐ上に古井戸があったそうだ)
  3. 県道118号線からも見える土塁(最勝寺の南約150m)
  4. 櫓台を備えた屋敷周囲の土塁(写真3のすぐ南側)
訪問記[2002/9/29]宍倉城はかなり広いので今日は南側を歩いた。菱木川に架かる館下橋から堀跡を利用したと思われる耕地に沿って登っていったところで農作業をされている方に話を聞いた。『(1)ここの下の場所を「矢場」と言って、馬に乗って矢を射た場所らしい。(2)60年ほど前、子供の頃戦ごっこでよくこの土手を上って遊んだ。そのころの土手は今みたいに篠で荒れてなかった。そこには大きく窪んだ古井戸の跡があった。この窪みへは土を入れて埋めても埋めてもやがて落ち込んでしまった。(3)ここは内堀と呼んでいるが耕地にするために土を入れたので浅くなってしまった。自分が25歳くらいの時に唐鍬で掘っていたら大きな御影石が出てきた。館の礎石に使っていたものだったらしいが、城を壊したときに堀へぶん投げられたと思われる。(4)宍倉に大手(オオデと発音する)という地名があるがそこに城の大手門があったと言われていて、道の向かい側の家の屋号が「鍵屋」で大手門の鍵を預かっていたからだと言われている。(5)菱木川は基盤整備で真っ直ぐになったが昔は蛇行していて雨が降るとよく溢れて大変だった。』
[2003/10/27]今日は鹿島神社・最勝寺周囲の土塁を見に行った。鹿島神社北側に堀と土塁があるが、ご多分に漏れずゴミの投棄場にされている。この堀は東へ延び最勝寺手前まで続いているらしいが、今日は全体は確認していない。鹿島神社から県道を東へ進んだ突き当たりのお宅の門の右手に土塁が見える。土塁はそこから東へ真っ直ぐ延びているようだ。県道に沿って左へ迂回し回り込み馬場公民館のあるあたりから南側を見ると畑の向こうに土塁が見える。(元来の虎口でなく最近切られたような)土塁の間を抜けるとまた土塁に囲まれた屋敷がある。土塁の外側には堀もあったようだがすでに埋められている。この土塁は櫓台を備えておりなかなか立派なもの。土塁の全体は確認していないがここが主郭部であるかのような構えである。宍倉城図を見ながらここで疑問が生じた。[疑問]鹿島神社南側の小字が「大手」、「本丸」と言われている畑の台地北側下が「搦(カラメ)」。なぜ、「大手」と「搦」の間に「本丸」が無いのだろうか?これら小字から推測するに、むしろ上記の土塁に囲まれた屋敷地こそが主郭部に相応しい場所なのではないだろうか。これらは時代的に異なる二つの城、なのかもしれない。ちなみに『出島村史』に「本丸北側には土塁で囲まれた「詰の城」と思われる場所があり、「城主坊」「古屋敷」などの地名がある」と書かれている。郷土資料館でお聞きしたところ、「宍倉城はまだ調査が行われておらず、城址図も伝承や小字をもとに作ったもの」とのことだ。ここ宍倉城は、標柱のある本丸と言われている場所だけでなくなかなか見所の多い城址だと再認識した。
所在地霞ヶ浦町大字宍倉
参考書『出島村史』、『重要遺跡調査報告書II(城館跡)』