概説 | 別名、飯沼城。 興国元(1340)年5月2日駒城は高師冬の夜襲で陥された。そこで、関、下妻、真壁の軍勢は、翌日奮起して春日顕時に率いられて反撃し、29日は戦火が猿島にも及んで飯沼砦(逆井城)を抜いた。これを聞いた高師冬は、小田城の側宮を焼き払い、兵をまとめて古河付近に引き揚げている。飯沼砦から引き揚げたとする説もある。(『南方紀談』)[『重要遺跡調査報告書II(城館跡)』より] 今から約415年前の戦国時代、この飯沼が小田原の北条氏(後北条氏)と佐竹・結城・多賀谷氏らとの領国の境目だった。北関東に進攻をつづける後北条氏は、飯沼に築城をはじめ、天正5(1577)年10月、北条氏繁(玉縄城主)は、藤沢より城の建物をつくるため大鋸引の職人を呼び、飯沼城中より、佐竹・下妻方面の動勢を報告している。天正18(1590)年、豊臣秀吉は小田原城に後北条氏を滅ぼし、この飯沼城は廃城になる。[『逆井城』より] |
手前より、平櫓、物見櫓、大手門 |
訪問記 | [2001/04/08]花見シーズン真っ盛りの日曜日の昼下がり。土塁上で遊ぶ子供達あり、堀底へ転落して足を挫いた若者あり、賑やかな城跡でした。 |
所在地 | 猿島郡猿島町逆井 |
参考書 | 『逆井城』(猿島町教育委員会)、『重要遺跡調査報告書II(城館跡)』 |