大砂土塁

概説 「大砂土塁」は仮称です。
 この土塁は畑を深く掘り起こしたときに土中より偶然真っ直ぐな堀跡として見つかった、と阿見町の郷土史研究家大竹房雄先生に伺った。したがって、土塁部分はその時点ですでに畑地となっていて完全湮滅していた。
 「吉原新堀北土塁および南土塁によって上久野城・福田城・下小池城の三城は島状を呈し、ここを突破されない限り安全圏である」ことが『阿見町史』に書かれている。間隔600mで平行するこの二つの土塁の西側に、「吉原新堀西土塁」とも言うべき匚の字の縦棒を形作るようなもう一本の土塁が、その後、畑の中から発見されたわけだ。これは、上記三城の防御を一層強固にする仕掛けだったと思われるが、地形図との比較から、もしかしたら牧の土塁だったのかもしれないと思わせるものがある。
この辺りの畑の中から堀跡がみつかった
訪問記[2003/02/04]とくに見るべき物はありません。
所在地稲敷郡阿見町吉原字大砂。大砂の信号南方にある、(株)荒川沖建材阿見工場付近から北東へ向かって伸びていたらしい。
参考書