大島城

概説 貞享5(1688)年2月25日付の「大島村水論裁許絵図」に「大嶋館」として描かれている。大島城は中世城郭としては大規模で、また細部の手法に戦国期の特色が見られる。文禄4(1595)年7月16日付で、佐竹義宣が真壁義幹に与えた知行宛行状写に「千五百仁十壱石仁斗仁升 大嶋」とある。この知行高は義幹の全知行所の中でもきわめて高い。大島が小田と真壁、小田と下館を結ぶ交通の分岐点に位置していることなども考えれば、現在見られる遺構は、真壁氏により作られた可能性が考えられる。もっとも、大島の近辺は早くから開発されているから、交通の要衝の位置していることも考え併せれば、ここに早くから小規模な領主の居館が作られたことや、城が作られたも考えられる。特に海老ケ島城を廻って対立抗争が繰り返された戦国期には、あるいは海老ケ島城攻略の拠点として、海老ケ島城と小田城を結ぶ中継点として軍事的重要性が高まったから、当然、城が作られていたと考えられる。[『筑波町史』より]
雷神社脇の土塁
    その他の写真
  1. 堀切(現水田)へ突き出す横矢(現畑)
  2. 南西端の土塁
訪問記[2002/12/31]集落の東側を最近新しい道路が通ったようだ。『筑波町史』によると、土塁遺構は北東部、雷神社、南西部の3ヶ所に一部残っているとあったが北東部のものはほぼ湮滅していた。堀跡は水田として使われてきたが宅地などになりかなり湮滅している。しかし、雷神社南側には明瞭にのこり、横矢とも思える形を残している。『村史千代川村生活史 第一巻自然と環境』p278の地図では北側を「大島城」、南側を「大島館」と分けて記載しているが別名ということでよいと思われる。
所在地つくば市上大島字井戸川。
参考書『筑波町史』