小幡城(おばたじょう)

概説 応永24(1417)年、大掾詮幹の三男義幹によって築城され、以来、義幹の子孫は小幡氏を名乗ってこの城主となった、と伝えられている。しかし、この大掾(小幡)義幹小幡築城説は、たんなる伝承の域を出るものではないというべきであろう。小幡城跡はかなり計算されたつくりをしており、現在みられる遺構が戦国後〜末期に形成されたものであることを示している。この城は、戦国期に江戸氏の支配下にあったことは確実である(鳥羽田・鳥羽田徳治家文書)が、この地が大掾氏や真壁氏の勢力との接点であったこと、とりわけ戦国末期、小田原の北条氏が土浦まで勢力をのばしてきて江戸・佐竹氏との軍事的緊張を高めていたことからみて、江戸領南東部最大の「境目の城」として重視されていたことは間違いない。[『茨城町史・通史編』より]
堀底道が招くように口を開いている
小幡城周辺遺構分布(昭和49年航空写真を元にした)(クリックで拡大)
その他の写真
  1. 迷路のような堀底道
  2. 変型武者走りの西端から櫓跡を臨む
  3. 変型武者走りの西端から本郭西側の堀を臨む
  4. 本丸の井戸跡
  5. 近々湮滅するツチモン(大手門)付近の土塁と堀(右手遠方から道路がやって来る)
訪問記[2001/02/19]城址をめぐる道路脇の駐車スペースからそのまま堀底道へと続いて、数歩あゆむだけで土塁と堀のダイナミックな景観に圧倒される。土塁のいたるところに折り歪みが設けられていてなかなか先まで見通せない。今回は本丸をめぐる順路に添って歩いたが、他の郭へも行ってみたい。けど、マムシが出ませんように!
[2003/03/10]今日は阿見町のO先生と美浦村のI先生のお供でやってきた。けむしさんも味噌まんじゅうの差し入れを持って顔を出してくれた。さすがのO先生もこの城には驚きを連発!
[2006/06/05]道路工事によってツチモン(大手門のことらしい)付近がごっそり潰されると聞いて見に来た。確かに杭が打たれ遥か北側の台地斜面(写真5の右遠方)は道路幅に伐採が始まったいる。鉾田市の石崎勝三郎氏に教えていただいたその他の周辺遺構(小幡千貫桜西堀切(仮称)小幡千貫桜東堀切(仮称)小幡山崎外囲い(仮称))も回ってきた。
所在地東茨城郡茨城町小幡
参考書『茨城町史・通史編』、『図説中世城郭辞典』