野友城(のどもじょう)

概説 武田信久は、結城合戦(1441)後、その功により将軍足利義教から所領を安堵され、荒原庄(野友)を賜り、武井郷を武田と改めた。[『重要遺跡調査報告書II(城館跡)』より]
大手口側の三重の堀・土塁
その他の写真
  1. 北西側の隅櫓台(高速回線の方はQuickTimeムービー(712KB)もどうぞ)
  2. 土取された法面のU字形の黒土断面は堀跡か?
訪問記[2002/12/23]北東側の三重の土塁から上がっていく道は郭の北東端にある十九夜講の祠へのお参り道。堀に沿って北から西側へ回って行くと郭の北西端の土塁が盛り上がり櫓台のように見える。また、堀の南西側は方形の拡がりを見せ、枡形を形成しているように見受けられる。最近土取された部分が城域かどうか分からないが、断面に堀の形が見えるような。
所在地鹿島郡鉾田町野友。鹿島鉄道坂戸駅の真南900m。
参考書『重要遺跡調査報告書II(城館跡)』