村田館

概説 明治10年の地籍図では字杉ノ宮には古くから御本丸とか御前山とか呼ばれてきた周囲とは異なる地割が存在し、落城して一族が四保城へ移ったとの伝承がある。ここは村田荘の中心地で小貝川の重要な渡河地点である高道祖(下妻市)に通じ、真壁方面から黒子・関城(関城町)、大宝城(下妻市)方面に渡河する地点でもありかつては交通の要地であった。このような条件を備えた地点であったため、村田荘の地頭職に補任された村田氏が最初に居館地に選んだものと思われる。そして南北朝争乱期には、近くの台地端を利用して四保城を構築したらしい。その時に村田館は補助的な存在となったのか、伝承では四保城の出城(砦)と称されている。[『明野町史』より抜粋]
水田よりも僅かに高くなった方形の区画が館跡
訪問記[2002/11/24]一面の水田の中にわずかに盛り上がった方形の区画が見られるだけ。初夏、水田に水が張られた季節に四保城の台地から見ると区画が把握しやすいだろう。
所在地真壁郡明野町竹垣字杉ノ宮。熊野神社の西北西350m付近で、周囲を取り巻く水田から80cmほど高くなった約100m四方の畑地。
参考書『明野町史』