概説 | 一般に守谷城は将門が築造したものといわれている。しかしながら、わが国には奈良時代より平安時代にかけて、いわゆる、柵の部類に属する防塁は構築されたようであるが、城館の築造が実施されるようになったのは、鎌倉時代になってからのこととされている。将門はあくまでも、守谷を信仰の場としたことに関連づけた方が、妥当である。とにかく、守谷城を築造した最初の人は、相馬次郎師常であったと推定したい。[『守谷町史』より] 守谷城の郭名は書かれている資料によってまちまちなのでここでは『守谷城址発掘調査報告書(平成8年)』遺構現況図の記号で示しておきます。 |
大手口の土塁(守谷小学校前) |
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訪問記 | [2002/11/05]守谷小学校に声を掛けて枡形跡の見学をさせてもらう。小学校前の大手口付近から枡形へかけて土塁が残る。清水門付近は都市計画道路の影響で破壊が激しく土塁は壊滅に近い。その先の馬出郭の感じも分からなかった。現在、いわゆる平将門城址の北側水田一帯を公園とするための整備工事が行われている。郭Gから郭Cへの土橋に対して北側真横から厳しく掛かっている横矢(QuickTimeMovie-513KB-11秒)が気に入った。横矢・枡形・豪快な堀・土塁など中世城を堪能しました。みなさんにもお勧めです。 |
所在地 | 北相馬郡守谷市守谷。守谷小学校周辺。 |
参考書 | 『守谷城址発掘調査報告書(平成8年)』、『守谷町史』、『重要遺跡調査報告書II(城館跡)』 |