荒野海防陣屋および台場

概説 「公辺御届向」(守山藩海防手当)(樫村家史料)の中に「荒野村 一、船付之場所ヨリ松川陣屋迄八里余 一、大筒台場 壱ケ所 一、見張番所 壱ケ所」などと書かれている。[『守山藩史料(下)』(大洗町史資料集第7集)より]
 旧幕府時代は、当部落は荒野村と云い、領主は水戸の分家磐城国守山の藩主松平大学頭で禄高は1万石、松川村今の沼前に第(大の誤りか?)陣屋があり大竹村荒野村が領地であった。(中略)砲2門を据えて陣屋のあった場所は、荒野の中央○○宅の東の高台であって、鹿島灘沿岸ぞいで一番高い一望千里の風光明媚の台地であった。今でも「陣屋台」の名が残っている。[『大野村の文化財 口承伝説史談等第2集』より]
 江戸後期、鹿島浦に黒船が現れ、人心は動揺した。(中略)その頃、荒野村の砂丘上には海防陣屋が作られた。この砂丘を古老は陣屋堀と呼んでいる。この陣屋は明治初年まで残っていて、あまり大きい建物では無かったと云う。(中略)この頃農民は武術を修練し海防調練を行ったと伝えられ、福寿院には「武術門人一同」の石碑が建っている。(中略)(天狗党の乱の時、)小山守並内田権右ヱ門は陣屋警備の功をもって庄屋格を仰せつかっている。(中略)陣屋警備は砂丘上にあった海防陣屋を指すものと思われる。天狗党の乱の際はこの陣屋は浪士の監視所になったと云う。[『『大野村の文化第5集 村落の歴史と文化』』より]
高台の南端を西側から臨む
その他の写真
  1. 高台の北端を西側から臨む
  2. 高台北側からの鹿島灘の眺望
  3. 高台南側からの眺望。眼下に用水の排水路が流れる
  4. 高台の海岸側一段下、豚舎が建つ場所は砲台を設置するには都合が良さそうだ
  5. ここは台場によさそう
訪問記[2004/05/30,31]陣屋堀といわれる高台:高台北側下の民家のお年寄りが「この丘を陣屋堀というんだ。天狗が来たときに占領された話を聞いたことがある」と教えてくれた。高台なのに「陣屋堀」とはこれ如何に、と問答でもできそうだがこの土地ではそう伝承されているらしい。今日は7人に「陣屋堀」を知らないかと尋ねたが、このお年寄りが唯一知っていた方だった。この丘に登らせてもらい鹿島灘を眺望する。いつ頃のものかは分からないが、足下に屋根瓦の破片がけっこう散乱していた。磯浜海防陣屋などの陣屋跡ではこの手の瓦が見つかるそうだ(とらさん談)。次に高台南側下の『大野村の文化財 口承伝説史談等第2集』に名前の出ているお宅を訪ねたが、陣屋堀なんて聞いたこともないと、けんもほろろ。東側の高台に登らせてもらったがものすごいブッシュ。ただ、西側の台地縁には土塁が造られ、その東側は痩せ尾根で狭いが削平地になっている。そこから東側(海側)へは緩やかに傾斜している。その斜面の中腹に豚舎が建つ平場があるが、ここに大筒を据えたと考えても良いのではないだろうか。まったく陣屋とかけ離れた場所に台場を置くよりも、陣屋の直下に砲台を置く方が理にかなっていると思われるからだ。
陣屋堀と陣屋台:『大野村の文化財 口承伝説史談等第2集』には「陣屋台」と書かれていてこの名称ならば納得できるのに、砂丘の高台をなぜ「陣屋堀」と呼んでいるのか、自分なりに次のように想像している。高台の南側を農業用水の配水路が流れている。「陣屋堀」地名の謂われであっただろう堀は、中世城郭のように郭周囲を取り囲む巨大な堀ではなかったと思う。この用水路のような小さな堀割程度であったとしても不思議ではない。ちょうど、北海道上磯町の当別陣屋「陣屋の川」みたいなものだったのではないだろうか。この川を陣屋の堀割とか陣屋堀とか呼んでいたとして、それが陣屋台と混同されてしまったと想像する。
福寿院の海防調練を記録した石碑:福寿院は現在はなく福寿院跡の石碑が残るのみだった。海防訓練を記録した「武術門人一同」の石碑も見つからなかった。
[2006/05/21]前回と同じ場所をより詳細に見て回った。豚舎がある場所は海岸よりも一段高くなっていて陣屋の直ぐ下に位置する。都市計画図で見ると輪郭も台場のような形状だし、北側には土塁もある。ますます怪しい場所なのだ。
所在地鹿嶋市荒野。中野東小学校の北東約600mの高台。
参考書『守山藩史料(下)』(大洗町史資料集第7集)、『国別 城郭・陣屋・要害・台場事典』、『大野村の文化財 口承伝説史談等第2集』(昭和46年)、『大野村の文化第5集 村落の歴史と文化』(昭和50年)