桔梗台場

概説 桔梗野台場とも。
 北海道がリストアップした『道南地方の台場跡一覧』には「箱館戦争図絵に記載あり、三稜郭か」「状態一部残存」と書かれているにもかかわらず、「所在地不明」になっている。上磯町のOさんは宝皇寺の場所が該当地だと言う。
 函館市立北高等学校の郷土研究部が、箱館戦争で榎本軍が構築したとされる桔梗野台場の場所を調べ、「三稜郭」と呼ばれる由来を探った研究が、高文連支部大会で優秀賞をとったという記事が2004年9月23日の北海道新聞に掲載された。少し長くなるが要約は以下の通り:「国別 城郭・陣屋・要害・台場事典」(西ケ谷恭弘編・東京堂出版)や、地元の郷土史家が書く本に「三稜郭」との記述があることに興味を持った。三稜郭は、郷土史の研究家らの文献に記載されている、箱館戦争で砲台に使われた台場の一つ。上記事典では桔梗野台場が「市内にあった台場の一つと考えられる。(中略)図絵に見る限り三稜郭であったかと思われる」と記述されており、三稜郭と桔梗野台場が何か関係を持つのではないかと仮定。調査を進めるうちに桔梗町と石川町にまたがる比遅里神社の土地の形状と周辺の地形などから「神社が桔梗野台場跡地だったのではないか」との推論に達した。神社の敷地を線で結ぶといびつではあるが三角形の形状になり、桔梗野台場が一部の文献で三稜郭と呼ばれていることも納得できた。[情報をくれたねりこさん(遊ぶべ!道南探検隊)、ありがとう]
新たな有力推定場所、比遅里神社境内南端部
その他の写真
  1. 推定場所のひとつ安寧山宝皇寺
訪問記[2002/08/26]推定場所のひとつということで、宝皇寺境内(函館市桔梗町)を見てきた。国道沿いに土塁が残るがいつのものかは不明。
[2004/07/31]比遅里(ひじり)神社境内の土俵の南側台地先端部はクマザサの藪になっているがその中に土塁があった。東側の台地縁は低い土塁がめぐり、下の畑が見下ろせる。また北側(土俵方向)は少し高い土塁で区画されている。国道5号線(現在の国道5号線は明治9年に開削されたものだということだ)の歩道から神社境内へ登っていく細い道があるがこれが当時の台場の西縁かもしれない。そうであればこの台地先端部はだいたい細長い三角形になっている。「西洋式稜堡に三稜郭は無い」ということも聞いているが、五稜郭四稜郭と造った勢いでオリジナルで三稜郭を造ったのかも知れない。
 一方で三稜郭にこだわらずに探すことも必要だと思う。北高校の研究は「三稜郭」をキーワードにしているが、『遊撃隊起終南蝦夷戦記』の「桔梗野」の陣は四角く描かれている。三稜郭ではないのかもしれない。
所在地函館市桔梗1丁目1番の比遅里神社境内南端部。もう一つの説は桔梗町221の宝皇寺境内。どちらも国道5号線沿い。
参考書『国別 城郭・陣屋・要害・台場事典』、『遊撃隊起終南蝦夷戦記』(市立函館図書館)