片野城

概説 別名、根子屋城。
 この城は、文永年間(1264〜1274)の頃、小田氏の一族八代将監が小田城の北の守の砦として片岡から移り、佐久山に築いたと伝えられる。その後、佐久山の北にあたるこの一画は永禄9(1566)年頃、武蔵国岩槻から来て佐竹義重にここを預けられた太田三楽斉資正が築いたといわれる。太田三楽はここにきてから3年〜4年、佐竹からの招きに応じて、柿岡城の梶原政景と協力、小田氏を国外に追ってのあとも三男資武とともに片野城にいたが、天正19(1591)年の秋、69歳で病死した。その後、石塚城(常北町)の石塚源一郎義国が城主となったが、やがて徳川の世となり、慶長7(1603)年に佐竹氏とともに秋田に遷り、次の領主羽柴壱岐守(滝川氏)が城が廃されるまで4代に及んでここにいた。[現地解説板より]
 佐竹氏が太田三楽をこの地に置いて城を守らせたのは、小田原北条氏と手を組んだ小田城の小田氏を警戒させるためであった。太田氏が片野に入った以後佐竹勢は、この城を拠点にして小田氏に圧力をかけ、いく度か合戦がおこり、ついには小田氏を小田城から追い出すことに成功する。[『図説中世城郭辞典』より]
 なお、郭の番号は『図説中世城郭辞典』に依った。
III郭南側に城址碑
その他の写真
  1. II郭(主郭)北側の土塁
  2. I郭北側の水堀
  3. 天神林神社のあるIV郭南虎口は内枡形
訪問記[2003/03/10]I郭北側に始まる水堀は民家の庭先を通り西へと郭を取り巻き堀留となる。今でもこれだけの水が残っているのは驚きだ。IV郭には天神林神社があるが、鳥居のある南虎口の西側には櫓台の土塁があり、内枡形を形成している。またこの虎口の堀切から東へ延びる堀の深さと幅は圧巻。
所在地新治郡八郷町大字根子屋字天神台。
参考書『図説中世城郭辞典』