苅間城および苅間神田屋敷

概説 狩間城、とも書かれる。
 小田氏の与党で、古河公方の旗下柳橋豊前守の妹婿である野中瀬左衛門尉入道純斎の居城。天正2(1574)年、小田氏治が土浦城にあって佐竹氏に滅ばされた時、入道は小田父子の後を追って最期を遂げた[『谷田部の歴史』より抜粋]。ところで、天正2年に小田氏治は滅ぼされるんでしたけ?
 『茨城県遺跡地図平成13年度版』からは、字篠にある遺構を「苅間城」、そして字古屋敷の遺構を「苅間神田屋敷」と分けて登録されている。過去に出版された『谷田部の歴史』でも「これらの関連の有無は確認できない」とあるので分けることにしたのでしょう。
古屋敷の民家の入口に残る土塁と堀(苅間神田屋敷)
その他の写真
  1. 篠の民家入口の二重の土塁(苅間城)
  2. 南北に伸びる土塁(苅間城)
訪問記[2002/04/02]南側の古屋敷の民家の入口には堀跡と土塁が残る。また、北側の篠の民家の入口の土塁は堀部分はほとんど埋まって浅いが明らかに二重土塁の姿を残している。また、屋敷地の西側に南北に伸びる土塁は約100mほどの長さがある。どちらの民家も入口の土塁や堀をきれいに手入れしているのが印象的。
古屋敷の南500mあたりでは常磐新線関連の工事をしているし、古屋敷と篠の間では新設道路の工事が行われている。ここをもう少しじっくり掘れば南北の遺構の関連が分かるだろうに。
所在地つくば市苅間字篠および古屋敷。南側の古屋敷と北側の篠の二地区に土塁が残る。
参考書『谷田部の歴史』