寿能城(じゅのうじょう)

概説 見沼を自然の要害として、永禄3年(1560)頃、岩槻城の支城として、北条氏方、特に川越城への備えとして築かれたと伝わる。現在のところ、発掘調査はされていない。[図録『戦国時代のさいたまー城と館からさぐるー』より]
寿能公園にあるのは築城者潮田出羽守資忠の墓
その他の写真
  1. 大和田公園に残る出丸の郭、堀、土塁
訪問記[2005/10/11]さいたま市立博物館およびさいたま市立浦和博物館で始まった、さいたま市・岩槻市合併記念事業特別展『戦国時代のさいたまー城と館からさぐるー』を見に行ったついでに、ここ寿能城と岩槻城へも足を伸ばした。遺構はなんにも無い公園整備だと聞いて行ったので、墓碑だけでも城を偲ぶよすがとなろうかと納得。300m南東の出丸跡へも行ってみた。大和田公園のひょうたん型の池を臨む台地先端部(グリーンハーモニー記念の森の西隣の雑木林)にわずかに郭、土塁、堀を思わせる部分がある。図録に「現在のところ、発掘調査はされていない」とあるが、公園整備の段階でなぜ調査対象にならなかったのか疑問。
所在地埼玉県さいたま市大宮区寿能町1、2丁目。本丸跡といわれる寿能公園は市営大宮球場の西側。出丸跡は大和田公園内グリーンハーモニー記念の森の西側。寿能町1丁目も城域らしいが、住宅地や大宮公園になって遺構はなさそう。
参考書図録『戦国時代のさいたまー城と館からさぐるー』