概説 | 永享の乱については何べん資料を読んでも頭に定着しないのは歳のせいもあるだろうが、ややこしいことには間違いない。この岩槻城の解釈も通説と新説があることを特別展解説で知った。 通説:扇谷上杉持朝の命により江戸城・川越城と伴に太田道真・道灌父子に築城させた。古河公方に対し、江戸ー岩槻ー川越の防衛ラインを結成。 新説:文明年間(1469〜87)頃。忍城主成田顕泰の父自耕斎正等により築城。古河公方方として、忍ー騎西ー岩槻の防衛ラインを形成。 永享の乱とは:永享3年(1454)、鎌倉公方足利成氏(のちの古河公方)が関東管領山内上杉憲忠を殺害したことにはじまり、幕府・上杉方と古河に退いた古河公方方との対立が続いた。[図録『戦国時代のさいたまー城と館からさぐるー』を参考にした] |
新曲輪の堀底![]() |
その他の写真 |
訪問記 | [2005/10/11]さいたま市立博物館およびさいたま市立浦和博物館で始まった、さいたま市・岩槻市合併記念事業特別展『戦国時代のさいたまー城と館からさぐるー』を見に行ったついでに、寿能城とここ岩槻城へも足を伸ばした。 福祉会館(イグレッタ)、野球場、生涯学習センターにかけてが新曲輪、第三駐車場から菖蒲池へはもともと湿地が入り込んでいたようで、菖蒲池の南側の小高い部分が鍛冶曲輪。二つの曲輪はともに比高二重土塁で囲まれていたらしい。新曲輪の南東側で障子堀が3本確認されている(本物は3m下に埋め戻された)とのことだが、堀の中に仕切の畝が何本か入れられていて、これは障子堀と言うよりも畝堀ではないだろうか。 岩槻駅近く、愛宕神社が祀られている場所は大構の土塁の一部らしい。周辺はまったく残っておらず、ここだけが大きな塚状になっている、 |
所在地 | 埼玉県さいたま市岩槻区宮町2丁目、本丸1〜3丁目、太田2丁目。主な遺構が残るのは岩槻公園内。大構の土塁は本町3丁目、東武野田線岩槻駅の北東400mにある愛宕神社の場所。大構まで含めると広大。 |
参考書 | 図録『戦国時代のさいたまー城と館からさぐるー』 |