板橋城

概説戦国期の月岡氏 月岡氏は常陸国新治郡月岡村(現八郷町月岡)から起こった土豪とされ、現在確認される月岡氏系図(江戸時代作成のもの)では小山氏の系譜をひく一族とするものが多いが今のところ確証は得られていない。戦国期においては常陸南部の稲敷郡牛久城周辺に勢力を誇っていた岡見氏に帰属し、その支城である板橋城(現伊奈町板橋)を守衛していた。
 当時、常陸南部は土岐氏・菅谷氏・岡見氏の三者が勢力を競い合っており、岡見氏は稲敷郡や筑波郡・河内郡に知行地を有し、板橋城・足高城・戸崎城・小張城などを一族や家臣に与えて所領支配を行っていた。
 月岡氏の板橋在城も天正15(1587)年には、佐竹・多賀谷の連合軍の度重なる攻略により終末を迎えている。そして、月岡氏は多賀谷氏の軍門に降り、その後は家臣団を解体して「糟内」の地(現在の豊田郡石下あたりに比定される)に移されたといわれている。板橋城自体はその後廃絶したものか、のちには「城山」と呼ばれるようになる。そして天正16年、板橋城跡に隣接する地に月岡家譜代の青木治部・豊島日向の尽力を得て東光山永寿院が建立される。これがその後、清安山不動院とともに月岡ゆかりの寺院として「月岡播磨守」の菩提所ともなっている。[宍戸知『常陸国板橋城主月岡氏の末裔と系譜-近世における「旧主」・「旧臣」関係-』より(『町史研究伊奈の歴史第4号(1999)』掲載)]
『東国戦記実録』によると天正11(1583)年2月、下妻多賀谷重経は岡見方の足高城攻略に先立ってまず板橋城を白井善通に攻撃させた。無勢の板橋城主月岡玄蕃(第3代)は戦うことの不利を悟り降服、板橋城は多賀谷方の青木治部・豊島日向が守ることになる。天正16(1588)年牛久城主由良信重の攻撃を受けた板橋城の青木治部は豊島日向と小張城から退却してきた大山備前・河田出羽の軍と共に激しく戦ったがついに降服。その後、由良信重の命により、青木治部・河田出羽等は多賀谷重経攻撃軍に加わった。[『重要遺跡調査報告書II(城館跡)』より]
南側(台通用水路側)から本丸跡の台地を見る
    その他の写真
  1. 板橋不動院楼門と三重塔(ともに茨城県指定重要文化財)
  2. 不動院本堂北側にわずかに残る土塁
訪問記[2002/10/15]不動院にはなかなか立派な伽藍が残っていました。時間があればもう少しゆっくり歩いてみたかった。この不動院の歴史は平安時代に始まり、本尊不動明王は国指定重要文化財、本堂、楼門、三重塔はそれぞれ茨城県指定重要文化財だそうだ。
所在地筑波郡伊奈町板橋。不動院、鹿島神社から台通用水路手前の台地上付近。
参考書『重要遺跡調査報告書II(城館跡)』、宍戸知『常陸国板橋城主月岡氏の末裔と系譜-近世における「旧主」・「旧臣」関係-』(『町史研究伊奈の歴史第4号(1999)』掲載)