石川城

概説大仏公園となっているこの地はもともと「石川十三館」の一つであり、最高所で本郭の石川館があった。鎌倉時代の曽我氏、戦国時代には南部氏が津軽地方を支配した際の居館とし、「大仏ヶ鼻城」と号していた。
元亀2(1571)年、城主南部高信は津軽為信に滅ばされ、その後為信は津軽統一を果たした。後に慶長16(1611)年、弘前城築城に際し、堀越城などと共に大仏ヶ鼻城は廃城となった。[弘前市による現地説明板より抜粋]
北側幸橋からの遠望
    その他の写真
  1. 郭内はかなり広い
  2. 東側には2列の畝状竪堀
  3. これも竪堀か
訪問記[2002/6/7]現在老人福祉施設のある西側台地との間の道や畑部分は堀切であったように思える。郭は東へ行くほど高くなっていて、とくに東側の城壁には畝状竪堀と思われる部分がある。しかし、ここはかなりの断崖絶壁で竪堀にせずとも上って来られそうにないのだが。この場所は下からも眺めてみたかったが時間がなかった。
所在地青森県弘前市石川字大仏。大仏院および大仏公園が目印。
参考書