概説 | 慶長8(1603)年遠江久能より筑波小張に移封された松下重綱(16000石)は、元和元(1615)年桜川西岸の寺具近辺にある5000石の領地を経営するため、寺具に陣屋を構えた。のち元和9年、松下氏は下野烏山に移り、寺具は天領となった。寛永2(1625)年、旗本本多重良が筑波郡内に知行地3000石を与えられ、寺具に陣屋を構え、子孫がこれを継いで幕末に至った。この本多氏の陣屋は松下氏の陣屋と同一の場所にあったというから、現存する本多氏の陣屋の遺構も、松下氏時代に作られたとみることもできる。また、寺具には、更に古く慶長7(1602)年まで寺具を領有していた佐竹氏により作られた城か、小田氏・多賀谷氏・真壁氏・上杉氏らの抗争の際中に作られた城があり、それが本多陣屋の基礎になった可能性も考慮する必要がある。
本多陣屋は、沢を挟んだ2つの台地にまたがるという、やや特異な構造になっている。このうち西側の舌状台地上の遺構は、舌状台地の先端部を堀切で仕切って曲輪を並べ、それらの周囲に概ね自然地形に添って土塁と空堀を廻らせるという、中世城郭の一典型ともいえる手法を採っており、全体の規模とあわせて、堂々たる城郭の構えを示す。もっとも、単調な縄張や低い土塁などから、有力領主の居城というよりも、野戦築城、いわゆる陣城に近い印象もうける。あるいはこれらの遺構は戦国期のもので、松下氏や本多氏が、それを陣屋に再利用したとも考えられる。もっとも、松下氏や本多氏が陣屋を構えたのは、戦国の遺風が残る江戸初期のことであるから、彼らがこのように軍事的色彩の濃厚な陣屋を新規に作ったとしても不都合ではない。本多陣屋は城郭として特異な点があり、保存もよいことから、その築城者と成立時期を特定することは、筑波町史は勿論、城郭史上の重要な研究課題といえる。[『筑波町史』より] |