東大沼城

概説 この城趾に関する詳細は不明だが次のような資料がある。
 鹿島神宮では毎年7月に大祭が行われ、それに派遣される使者を大使と呼び、大掾氏の一族が交代で勤めていた。宮本茶村の『安得虎子』や大掾裔石川氏文書などに収録されている「鹿島大使役記」の記録を総合すると建長元(1249)年から応永11(1404)年までの、各年号と干支その年の大使を勤めた大掾一族の名を知ることができる。石川文書の応永4(1397)年の記録には「東条大沼茂幹」と記されている。「東条大沼茂幹」は東条氏の一族の大沼氏の惣領で、大沼氏は東条荘大沼(現稲敷郡東村大沼一帯)を本領としていたと見られる。[『龍ヶ崎市史中世編』および『龍ヶ崎市史中世史料編』を参考にしました]
 現在東町内に大沼という地名はなく東大沼だけだが、これらの地名は上記のように東条大沼氏と関係があるものと思われる。(この資料の存在を知らせてくれた太田さんありがとうございます)
北側から
    その他の写真
  1. 西側虎口(畑側から回って行ける)
  2. 西側の堀・土塁
  3. 北西側隅櫓台
訪問記[2003/02/04]新宮神社南側の畑脇に赤い門柱の作業場があるので入っていった。中は畑や使っていない豚小屋など。そこで作業されている方にお話を聞いた。昭和45年頃に大型機械で周囲の土塁を均してしまったとのこと。郭内部と土塁の比高は1.5mほどだったそうだ。また、郭周囲を帯郭が廻っているように見えるが、ここも土を落として均したそうで、実際は堀と土塁だったそうだ。したがって、比高二重土塁的な構造だったらしい。郭周囲を土塁が廻っていたが、現在椎の木のある北西部が最も高い場所だったそうで、櫓台があったのかもしれない。どういう字を書くのかは分からないが、この郭のある場所だけが字「こや」というそうだ。稲荷の祠のある西側土塁部分はこの方の土地でないので触っていないと言っていたから、ここだけは古い形が残っていると考えられる。稲荷社があるということは、ここも土岐氏の城館だったのか。ここへ入ってきたときに人懐っこく出迎えてくれたワンチャンは3日前に捨てられていた犬だそうだ。
所在地稲敷郡東町東大沼字こや。ガーデンゴルフ倶楽部へ上がる道の途中、新宮神社の南西側150m付近。
参考書『茨城県遺跡地図平成13年度版』、『龍ヶ崎市史中世編』、『龍ヶ崎市史中世史料編』、『東町史史料編古代・中世』