橋本城

概説 応永12(1405)年、太田伊勢守定経の築城によるという。太田伊勢守拠城とするもその後一時谷中大学正国が入る。天正年間(1573〜1591)に片見伊賀晴信の拠城となったが晴信が戦に敗れ一族討死したという。その後に入りて谷中正国の子孫が久下田水野谷に仕え、さらに笠間井上に仕え笠間の出城として橋本城を拠城とした。谷中玄蕃は下野益子方のために敗れ戦死したが、谷中玄蕃の子孫三郎が玄蕃守を名乗って益子方を敗り以来谷中家の拠城とする。[『重要遺跡調査報告書II(城館跡)』より]
北東側から(手前の山)
その他の写真
  1. 横矢の掛かる虎口
  2. 虎口を入ると枡形様の空間
訪問記[2003/05/05]橋本城の鬼門にあたる鎮守社爪黒神社脇から山道を登る。日頃の運動不足を感じてしんどいのではあるが、ついついペースが速くなってしまう。途中薬研堀状の山道を行く。城址の北東側に標柱が立つ。ここから城内という感じだが周辺の遺構の意味が理解しにくい部分がある。近年の改変によって攪乱されているためだろう。標柱から右折・右折・左折・左折と進むと虎口がありその先には三角形の枡形様空間がある。その先の登り道がはっきりしない。途中角枡形様空間を通り本丸・二の丸北東側の大きな帯郭へ登る。そこから二の丸・本丸と登る。本丸は差し渡し40mほどの多角形。中央やや西側に高さ3mほどの塚がある。『重要遺跡調査報告書II(城館跡)』では「枡形」となっているが、城山城(つくば市)の曲輪IIの塚のようだ。
所在地西茨城郡岩瀬町上城字古城(橋本山頂上、標高227m)
参考書『重要遺跡調査報告書II(城館跡)』